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7割は男に間違われる名前で生きてきた女子校育ちが、ジェンダーについて思うこと
こんにちは。大学4年生のふがしです。
今回は、私がジェンダーというものを強く意識するきっかけとなった「名前」について語ろうと思います。
この記事は、現実世界で私をご存じの方が、「ふがしって、あいつじゃね?」と特定する決め手になるかもしれません。
気づいてしまった方、こんにちは。
いつもお世話になっております。
初めてのボブ
21歳の誕生日を迎えるひと月前、私は美容院に向かっていた。
今日はどうしましょうか?
ーーー肩より上にしたくて。
私は生まれてこのかた、髪を肩より上に切ったことが一度もなかった。
20歳のうちにやっておきたいことを考えたとき、髪を肩より上にすることが真っ先に思い浮かんだ。というか、それしか思い浮かばなかった。
大きな決断をしたという爽快感でいっぱいの私とは正反対に、美容師さんは淡々とした口調で、分け目を作るか、量、お手入れの仕方など具体的な説明をおこない、私の長い髪をさくさくと切っていった。
なぜ私はこれまで髪を伸ばしていたのか。
なぜ21歳を目前にするまで踏みきれなかったのか。
中途半端に伸ばしておくより後ろで結んでしまった方が楽だったから。
そんな実用的な理由だけだろうか?
違う。
少しでも、女の子として見られたかったからだ。
アイコンとしての長い髪
私の本名は、どちらかといえば男性のほうが多い名前だ。
小学校時代は、クラス替えしたてのときや塾の模擬試験での点呼など、名簿だけを見て名前を呼ばれる状況で、7割がた男子と間違えられた。
「あ、女の子なのね」
「◯◯くん?」「あ、◯◯『さん』でしたね」
と何度言われたことか。
椅子に座った状態で大人たちにいち早く「あ、女の子なのね」と気づいてもらう方法は、長い髪しかなかった。
シュシュや可愛い髪ゴムをくくりつけて。
(声の高さで分かってもらえそうだが、声の高い男性だっているし、なにせこの時は小学生だったから声は判断要素になりえないのだ。)
水泳の記録会で男子に間違われた挙句、自分より年下の男子の組で泳がされる羽目になったときは、心底自分の名前を恨んだ。
恨むべきは名前ではなく記録会の担当者であると、今となっては分かるのだが、当時の私は一目で女の子だと分かる名前が良かったと嘆いた。
両親は申し訳なさそうにして、「成人したら好きな名前に変えられるから、変えてもいいよ」とまで言ってくれた。
私は、特別「女の子らしい」タイプでもない。でも、男に間違われることは何よりの屈辱だった。
小さい頃はそんな二分法の世界で生きていたから、私は女だと認識されることを望んだ。
女子であることを意識せずに済んだ中高時代
中高は女子校に進んだ。
当時はこんなことを考えなかったが、今思えば私にとって女子校は、自分が女子であることを意識せずにいられる、とても快適な環境だった。
教室の近くにあるのは全部女子トイレだし、制服も全員同じ選択肢が与えられているし、男女別の更衣室なんてない。
もちろん、こころの性別に迷いがある人もいたと思う。
でも、男女という大きな区別が学校内から排除されていたからこそ、女子のなかでのこころのグラデーションが存在可能だった。
このころには髪を結ぶことにも慣れ、部活の都合上、肩ぐらいでもわもわしている方が煩わしかったから、髪を切ろうとは思わなくなっていた。
髪を切る決心
じゃあ20歳、なんで急に髪を切ろうと思えたのか。
それは、コミュニティが固定化されてきて間違われる場面が減ってきたからだと思う。
大学生活の最初の頃はみんな探り探りだから、女子は女子で固まって仲良くなったりとかがあった。
でも3年生にもなれば、ゼミ、部活、バイトなど会う人はだいたい決まってきて、すでに出会っている人と関係を深めることが増えてきた。
見た目が男だとか女だとかではなくて、外見上私は私として生きられるようになった(と思う。内面に関してはまだ葛藤中だが)。
髪を切ってみたら、どうやら私はボブが思いのほか似合うらしい。
髪を乾かす時間も減って、頭が軽いし、最高だ。
自分の見た目の変化はもちろんだけれど、何よりうれしかったのはまわりの反応。
うわ短くなってる!、似合うね、顔が余計小さく見えるね、とか言ってもらえて毎日ほくそえんだ。(ちゃんとありがとうって言ったよ!)
自分にそんなに関心を持ってくれてる人、いるんだね。
ジェンダーレスネームというのがあるらしい
こうして私は21歳を目前にして長い髪の呪縛から解き放たれた。
しかし、また名前をめぐって考えさせられることがあった。
知り合いにお子さんが生まれた。男の子だという。
名前の話になり、「◆◆って言うんですよ。最近流行りのジェンダーレスネームですね」と紹介していた。
ジェンダーレスネーム。私の名前も今でこそそれに含まれるのだろう。
知り合いは社会問題に非常に鋭い視点を持っていて、すごく尊敬できる人だ。確固たる考えがあっての名前選びなのだと思う。
でも私は、その子が将来女の子に間違われて苦しい思いをする未来を勝手に想像し、勝手にしんどくなった。
境目を曖昧にすることで、救われる人もいれば苦しめられる人もいる。
まとまらなくなったから思ったこと全部書く
最近気づいたことがある。
私は、名前が嫌なのではなく、間違えられたときに毎回女だと主張するのが嫌だった、ということだ。
自分が生物学的に男でないことは確かだ。
でも、じゃあ本当にこころも性格も世間で求められるような「女らしさ」(言葉遣いは丁寧ですか?かわいく笑えますか?男性に恋愛感情抱きますか?みたいな、私の心底嫌いなやつ)を問われたらそんなわけないのに、「とにかく女です」って主張しなきゃいけないことがつらかったからなのかな、と思った。
結局、何を書きたかったのか分からなくなった。
とりあえず、「くん」「さん」という呼び分けをやめてほしいかもしれないし、ケーキ屋さんの前においてあるお誕生日のお名前ボードで、男っぽい名前と女っぽい名前でペンの色使い分けるのはやめてほしいかもしれない。
「◯◯(本名)」だけを見て、青のペン使おうと決められるあなたの決断力には脱帽です、はい。
この前の春、ゼミの卒業生に花束を選ぶ係になった。
デパートのお花屋さんで、「渡す方は男性女性どちらですか」って聞かれたけど、「あんまり差つけたくないんです」と言って二人分ともオレンジ系にするという選択をできたとき、私はなんだかほっとした。