声の大きな人たちのことが嫌いな現代アーティストたちが声の大きな人たちが生み出した現代アートの系譜に便乗しているというはなし
ぼくです。
日本の現代美術史には3通りの人間しか存在しない。
鴨居玲か、石田徹也か、それ以外だ。
唐突にラディカルな主張からスタートしてみたわけですが今話したいのはそこではなく同世代のアーティストと現代アートに関する小話。
現代アートっていうと既存の価値観だとかアカデミックな理論なんかから解放された自由な作品、ってイメージを持つ人が多いんじゃないかな。
それも間違いではないんだけどそれはすごく些末な観点で、
現代アートのコアの部分っていうのは”力を持つ者に対して公正さを求めて声を上げる動き”っていう観点、これを絶対に欠かしてはいけない。
現代アートがアカデミズムを否定したのは限られた属性の人々が美術作品の良し悪しを決めてしまっていることへの公正さを求めての反逆、この視点を欠かしてしまっては現代アートの系譜を理解することはできない。
19世紀末のフランスで印象派と呼ばれる画家たちが台頭してきたのだって当時のフランスのサロンの限られた属性の人々が美術作品の良し悪しを決めていることへの反逆。
音楽でいえば1970年代、ディスコに行くことができなかった貧困層の若者たちが街の公園にレコードプレーヤーなどを勝手に持ち寄り新たな音楽文化を開花させていった。いわゆるHIPHOPの始まりである。
反逆の対象は美術業界という比較的ミクロなものから白人社会というマクロなものまで徐々に徐々に波及していった。
重ねて言うが限られた属性を持った者たちが権力を持っている構造に対して公正さを求める動き、これが広義での現代アートの本質だ。
デッサンできないし美術理論を知らない僕ちゃん私ちゃんでもアーティストになってもいい、という狭義な意味で捉えているのならそれは再考を求められる。
同世代のアーティストの発言をSNSで見ている限り彼らの思想の根っこっていうのはインターネットの冷笑系の文化で形成されているようだ。
いわゆる「権利を声高らかに訴える奴らがギャーギャーうるせぇ」とか「主語の大きい奴らがギャーギャーうるせぇ」っていうやつだ。
大っ嫌いだけどね、あーいうネット仕草。
実際彼らは昨今の日本の世論に関して「なんでもかんでも社会的正義の押し付けてくる息苦しいまでの清潔さ」を感じている層が多数派のようだ。
彼らが物事を判断するときに社会や組織の価値判断に公正さがあるかないかという視点はない。
彼らにとっては何かを主張するするということ自体が「みっともない」ことだから。
「正義=暴走」だから。
これは俗にいう逆張り、凡庸である。
もしかして清濁併せ呑むことが豊かで寛容な社会であり何でもかんでも清潔さを求める世の中は息苦しい、みたいなこと言いたいのかもしれないけど実態は清濁どころかあまりにも濁の部分が大きすぎて弊害の方が多いから声を上げてる人がいるのではないか?
自分たちは濁の部分の被害を受けない安全な場所にいながら他人にはリスクを負いながら清濁を併せ呑むことで得られる秩序をおおらかな社会と呼ぶのならぼくは「清潔で窮屈」な世の中で構わない。
現代アートの根幹にある思想と日本の現代アーティストの思想というのは根本から矛盾していると言っていい。
これは政治的イデオロギーの話ではない。
事実として現代アートにはそういう系譜があるという話。
先にも言ったように当時のフランスの美術界からすれば印象派の存在自体が「サロンにも認められなかった連中がギャーギャーうるせぇ」ものだった訳だけどその辺に関しての現代アーティストとしてのあなたの見解は?
ぜひ聞いてみたい。
一方時と場所変わって関西では1950年代に「具体美術協会」という現代アーティスト集団が活動を始めて数々の功績を残していて、2024年現在もその影響を受けている若年層のアーティストはそれなりにいるんだけど、
もし具体美術協会の人間が20代ばりばりの現役アーティストとして現代に転生したら大阪万博etcで火中の維新の会とずぶずぶの吉本が運営するアート事業なんて真っ先に中指立てるんじゃないか。
日本のGDPに占める公教育支出はOECD諸国最低レベルでありながら「クールジャパン機構」を通じて吉本の「教育事業」に100億円の公金が投入されているわけだけどそれに関してあなたの見解は?その吉本のアート事業に関わることに関してアーティストとしてのあなたの矜持は?
むしろ関西の現代アーティストは吉本が企画運営するアートイベントや施設での展示活動なんかを自らのキャリアとして嬉々として受け入れている有様だ。令和の関西の現代アーティストには先述した現代アーティストとしてのメンタリティは無さそうである。
重ねて言うが日本の現代アーティストにとって現代アートとはアカデミックな美術理論は習得していなくてもアーティスト活動をしてもいいという意味であったりサブカル、イラスト的な作品をアートの文脈で発表してもいいという意味のことであって、構造側(体制と言い換えてもいい)が負うべき責任を放棄している不公正な状況に対する義憤であるとかそういう視点は薄い。
それはそれとしてぼくは同世代の現代アーティストに対して「鴨井玲にも石田徹也にもなれなかった凡人たちがアーティスト面するなんて声の大きな人たちがギャーギャーうるせぇ」なんて言わないから安心してね🙃🙃🙃🙃
生きることで精いっぱいです。