小倉城武将隊の新作舞台「白黒騒動」への予習
前回の記事で、小倉城武将隊の新作舞台が小倉藩の御家騒動である「白黒騒動」だとお伝えしました。舞台の内容について私は全く知らないのですが、作品を楽しむためには予習が必要だと思いますので、簡単にまとめてみます。
小倉藩の御家騒動は、5代藩主小笠原忠苗時代の「小笠原騒動」と6代藩主小笠原忠固時代の「白黒騒動」の二つがあります。前者については、これらの記事にまとめていますのでご覧ください。
白黒騒動の前段
江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年 - 1837年)徳川家斉(とくがわ いえなり)公の世の話。
(※研究不足ですが、徳川家斉公の時代だったことが「白黒騒動」にも大きく影響しているのではないかと思っています。Wikipediaからの引用で恐縮ですが、家斉の治世からのエピソードは以下のようなものがあります。)
家斉公の将軍就任を祝うため、1811年(文化8年)第12次朝鮮通信使が対馬に来ます。といっても、家斉公が11代将軍に就任したのは1787年(天明7年・正祖11年)ですので、20年以上経過してからの通信使ということになります。幕府側としても朝鮮側としても費用を圧縮したいという中で、交渉が長くかかったというところでしょうか。この家斉の将軍職就任を祝賀して派遣された朝鮮通信使が、江戸時代最後の朝鮮通信使となりました。しかし、対馬での応接にとどめ、江戸へは招きませんでした。
そこで朝鮮通信使を対馬で迎える上使役を勤めたのが、小倉藩主小笠原忠固です。役目を無事果たした忠固は侍従に昇進。更なる出世を狙い、猟官運動(官職を得ようとして、力のある人物に働きかけること。)に奔走します。これが「白黒騒動」の発端となります。
通信使を出迎えるためには費用がかかります。前回の記事にも書きましたが、先代藩主のもと家老犬甘知寛(兵庫)(いぬかい ともひろ)の藩財政改革により財政が好転しました。その資産が使われたのでしょう。そこで手応えを得た忠固公は更なる出世を目指したと言われています。
老中になりたいと、本人が言ったかどうかは定かではありませんが、「幕政に関わりたい」という気持ちはあったと思われます。忠固は当家の家格である帝鑑間(ていかんのま)詰から、溜間(たまりのま)詰の家格を望みました。(詰とは、江戸城で将軍に拝謁する際の控室のこと。要は並ぶ順番のことですね)実際には、老中になるには小倉藩は石高が多すぎるため、そもそも老中になるのは難しかったという話もあります。
白黒騒動の概要
忠固は、当初は反対していた江戸家老の小笠原出雲に命じて猟官活動を始めさせました。賂与出費、いわゆる賄賂が莫大なものになる事が予想されましたが、臣である出雲は、この命に従う他になかったと思われます。
国元の家老はこれに反対し、出雲に従って権勢を募っている鹿島・渋田見・小笠原仲・絹川などを罷免するよう、忠固に要求しましたが受け入れられず、そこで次善の策として、渋田見主膳を残して後の三人を退けるよう進言して受け入れられました。
ただ、その渋田見主膳が襲撃され、後に亡くなります。(小倉織の強さの話はこちらから来ています。そのエピソードはこちらでも披露しました。)
国元の家老に、忠固は自宅謹慎を命じました。その結果、家老や家臣80余人(家臣の4分の1)総勢350余人が筑前黒崎に出国。当時はもちろん許可なく国をでるのは「脱藩」と言って重罪。城にいる者を「白組」、黒崎に出奔した者を「黒組」ということで「御家騒動」に発展しました。
御家騒動が幕府に伝わるのを焦った忠固は、脱藩した藩士たちの「自らを元の役職に戻すこと」などの要求をのみ、藩士たちは3日後に小倉藩に戻ります。
しかし、当然幕府の耳にも入ります。(幕府に報告したのが、「黒組」のメインメンバーの妻という話もあります)幕府の裁定により出雲は家老罷免、反対派の一部の藩士は処刑されます。
忠固は100日間の蟄居に。意外に軽いお咎めですんだ忠固ですが、「小笠原家の勲功」(かつて徳川家康を守って勇敢に戦死した小笠原秀政(豊前小倉藩初代藩主・小笠原忠真の父)の手柄)や、「幕府に対する忠誠心」も罪を軽くしたと言われています。
白黒騒動のその後
後に、忠固は溜間(たまりのま)詰へと出世を果たします。夢破れたようにも見えるかもしれませんが、出世はしたのです。
その後、忠固は年貢増徴などにより藩財政の再建を図りましたが賄いきれず、白黒騒動での出費と混乱から借金は15万両に膨れ上がるなど藩財政は悪化していきます。遂には百姓の窮乏化を見て哀れんだ奉行が、年貢減免を独断で行なった後に切腹するという事件まで起こりました。
犬甘知寛(兵庫)が藩財政改革に取り組み、好転していた財政も窮乏化の一途を辿りました。幕末の戦いにもこのような状況が影響を与えていたかもしれませんね。
また、忠固の代の終わりに小倉城は失火により炎上し、それから天守閣は再建されませんでした。
ということで、少し複雑ではありますが、二つの御家騒動についてお伝えしました。小倉城武将隊の新作舞台がどのような内容になるのか、期待しましょう。