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『小倉祇園展』と、祭りの始まり
6月29日から「小倉祇園」の企画展が始まりました。
北九州市にぎわいづくり懇話会発行の情報紙「雲のうえ」を編集されている、「牧野伊三夫」さんのイラストが特徴のポスターが各地に貼られています。今、だいたい月に1万人くらい小倉城庭園に来ていただいてますので、2万人ちょっとの方に小倉のお祭りを紹介できる形になります。
小倉城庭園の館長が月に一度ラジオをやっていて、そこで小倉祇園の詳しい話をしたので、その一部を紹介します。※ラジオのリンクはこちら
![](https://assets.st-note.com/img/1720401821111-xnNkEgGFSG.png)
小倉祇園の始まり
元和4年(1618年)に小倉祇園が始まったと言われています。この年、豊前国一帯は干ばつ、疫病、水害などに苦しめられており、当時の藩主細川忠興は家宝を売りさばいて被災者救済にあてたとのこと。何とか平穏を取り戻したので、三日三晩、京都の祇園祭をもとにした盛大なお祭りを開催したのが、始まり。
ここで気になるのが、どの家宝を換金したのかと言うところですよね。その辺りを、細川家の配下を自称する小倉城庭園の学芸員、黒田きのとさんにお尋ねしました。
「小倉祇園の時かはわかりませんが、民が困窮しているときに”小夜左文字”を始めとしたお宝を売ったという記録はあります。」
※小夜左文字のwikiはこちら 南北朝時代に作られたとされる日本刀(短刀)
本作は当初幽斎の愛刀であり、幽斎の死後は細川忠興にも引き継がれていた。しかし、1627年(寛永4年)に小倉藩大飢饉が起こった際、細川忠利は領民の飢餓を救うために小夜左文字と大名物の茶器「有明の茶入(安国寺肩衝茶入)」を売却したとされている。
Wikipediaを参照するのもあれとは思いますが、詳しく記載されていました。細川忠興忠利は素晴らしいお殿様だったんですね。小倉祇園の始まりとは違いますが、家宝を次々に売るしかなかったんでしょうね。
というわけで、しろテラスでレプリカの小夜左文字が販売中です。他、様々な刀がおいてありますが、爆売れ中です。ぜひ、あなたも購入を検討されてください。
![](https://assets.st-note.com/img/1720492126248-2SBikOuzY3.jpg?width=1200)
明治時代頃の小倉祇園
刀の話はそれくらいにして、小倉祇園の話に戻します。小倉祇園は、幕末の慶応2年(1866年)に起こった長州戦争によって城下町は疲弊し、祭りの古式が失われていったと言います。
それから小倉祇園は形を変えながら続いて行くこととなりました。今回メインで展示されているのは、明治時代の幕や服たちです。
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今とはかなり違った、かっこいい陣羽織が特徴です。今が浴衣と法被が基本のユニフォームであることを考えると、かなり違ったものになってると思います。
今回の小倉祇園太鼓展で伝えたいことは、小倉の伝統文化と言っても「同じスタイルでは続いていない」ということ。形を変えながら、新しい人を受け入れて、小倉祇園は続いてきました。この新しいものを受け入れて進化を続けることこそが小倉っぽさだと思うのです。1000年同じスタイルで祭りが続いているわけではないけれど、それが良いところだと思います。
現代の小倉祇園
小倉城庭園の場内には「末広町」さんの小倉祇園太鼓が置いてあります。「八百屋西町」さんの衣装も置いてあります。かっこいいですね。
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会期は9月1日まで。夏の間は『小倉祇園展』が開催されています。ぜひご覧ください。