KokugoNote #19 高2現代文・国語表現
こんばんは! ※順番が前後します。
学年末考査まであと数えるほどの日数となりました。
前回の俳句の事前学習を踏まえて、次の俳句を学んでいきましょう。
昨年12月には正岡子規たちの俳句を既に学び終えたとのことだったので、教科書の続きとなります。
自由律俳句の旗手
荻原井泉水さんの句です。
①たんぽぽたんぽぽ 砂浜に春が目を開く
まず作者が何に注目したのかを確認します。
「たんぽぽ」ですね。
僅か17字のメッセージなので、一語一語、丁寧にそのイメージを掴もうと努力してください。
たんぽぽというと、西洋タンポポが思い浮かびますね。
青々としたギザギザの葉の、黄色い花をつけるタンポポです。
他にも綿帽子をつけて風に飛ばされる様子を想像した人もいたかもしれません。
ここでは、「開く」という述語があるので、咲き始めたということが理解できます。
「開く」が、「たんぽぽ」「春」「目」を受けていることはすぐに解ります。
このような述語が現れたら、対義語を確認しなくてはいけません。(評論文の読解と同じ)
「開く」の反対は「開かない、閉じる」などですね。
「目が開く」は人間の行いなので、春がそれをするということは、「擬人法」ということも理解できます。
話を戻すと、普段、私たちが「目を開く」前は何をしているのかというと、目を閉じて「眠って」います。
日差しが窓から差し込んできて、部屋がぽかぽか温かくなって、「目が開く」のてす。
たんぽぽも、それまでは「眠っていた」のでしょう。植物の「眠っていた」状態とは、開花前の固い蕾(つぼみ)の状態です。
なので、
ここでは、綿帽子のイメージではないことが判りますね。
そのような「たんぽぽ」がひとつ咲いていたのか?と言うと、そうではなさそうです。
「たんぽぽや」という上五ではなく、大きく字余りした「たんぽぽたんぽぽ」なのです。
敢えて五音の枠組みから外れ、二度、繰り返すことで、至るところに咲き乱れていることに気付かされるのです。
場所は、砂浜なので、目の前には海が広がっています。浅瀬なのでしょう。
春先に海で泳ぐ人はいませんので、ビーチは人気がない印象を与えます。
また少し肌寒い春の日に、波が行ったり来たりする海潮音を立て、ひとり遠くを眺めていると、ふと腰を下ろしたときに、足元にたんぽぽが咲き乱れているのを見て、作者は感動を覚えたのでしょう。
もう一度まとめましょう。
朝、散歩に海辺まで行く。→ 人気のないビーチでぼんやりとする → ふと腰掛ける →足元に花開くたんぽぽを見つける →見渡すと至るところに咲いているのに気付く →もう春が訪れていたのだなとしみじみ。
春の訪れを何に見るか、どこで見るか、皆さんも探してみましょう。
※「たんぽぽ」平仮名、「タンポポ」片仮名、「蒲公英」漢字、「TANPOPO」ローマ字の中から表記を、作者は選んでいるということも、俳句や短歌などの場合は注意が必要です。
ひらがなは柔らかい印象を与えたいとき、カタカナは引き締めたいときや外来語の概念を援用したいとき、漢字は重厚感を意識づけたり、古い時代を想起させたりしたいとき、ローマ字はじっくり読ませたいときなどに、用いることが多いです。(あくまで一例ですが)
※人の名前が漢字だったとき、ひらがなだったとき、カタカナだったとき、ローマ字だったときの印象を考えてみたら良いです。
例えば、けんと、ケント、健斗、KENTOだと、同じ人を指すときでも、印象が変わりますよね。日本語は様々な文字を持っているので、どのように使い分ければ、どのような印象を与えられるのか、よく調べておく必要がありますよ。
②我家までの月の一すぢ
井泉水さんのもうひとつの句です。
何に着目しているか、「月の一すぢ」ですね。
月明かりが一本道を照らしている様子です。
家々の漏れ出る光もなく、通りの街灯もない田舎の情景が思い浮かぶでしょうか?
都会っ子の皆さんには、樹々の生い茂った公園なのかもしれませんが、昭和生まれの先生には、田畑の中を縫(ぬ)う畦道(あぜみちを歩く姿を思い浮かべました。
月は秋の季語なので、澄み切った高い夜空に昇った月が想像できるでしょうか?
ひとりとぼとぼ歩く帰り道に、月が家まで案内してくれるかのように光の一筋を落としてくれるという安心感を、先生は読み取りました。皆さんはどうだったでしょうか?
※今、テレビで「プレバト」を視聴していますが、「春うらら」は、「春」も「うらら」も、ともに春の季語だと、梅澤さん、夏井先生も指摘されていました。『歳時記』にもいくつかあって、調べたものでは、「春うらら」という語があったので、解釈の違いかもしれません。ただ、「うららか」は確かに春にしか用いない言葉なので、重複を避けた方が良いというのも納得です。
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