Kokugo_Note 高2現代文B・国語表現 #51
11月から取り扱った定番教材、夏目漱石『こころ 下:先生と遺書』を整理しようと思う。
(それにしても今日も寒い雨の1日だった。)
長編小説『こころ』は1957年から教科書に採録されており、今の高校生の父ちゃん母ちゃんはもちろん、爺ちゃん婆ちゃんも学んできた国民的小説のひとつだと言っても良いだろう。
当初は「上:先生と私」だったようだ。私自身は、先生の「遺書」で学んだ。その当時の先生たちも、やはり一冊丸々読ませないといけないという方針で、夏季休暇の課題となっていた。鷹揚な、平生、厭世的、彷徨する、妻(さい)などの言葉を学習したのは、この小説だったと記憶している。
当然ながら、教科書には紙面の都合のため、上・中はもちろん、下の前半部分はあらすじのみの紹介に留まっており、さらに下の後半もカットされている。ひと月丸々、『こころ』だけを勉強しようという企画だったので、青空文庫で下の始まりから、皆で読み進めていくことにした。朗読はYouTubeの親切な方におんぶに抱っこであった。(ヒンナ、ヒンナ)
下巻を簡単にまとめていこうと思う。
両親を病で亡くしたものの、東京の大学へ進学を決めていた「私」がとても呑気な人物として描かれるのが、下巻の始まりである。「鷹揚な(おうような)」=「金持ち喧嘩せず」と解釈しても良いかと思うのだが、とにかく、さまざまな物事に齷齪(あくせく)せず、心に余裕のあるお坊ちゃんでいたのが「私」である。
東京帝国大学への進学が決まっていたため、(強い立身出世の志は全く感じられない)実家や遺産の管理を、隣の市に住む実業家の叔父に丸投げして、東京へ向かってしまう。簡単には売却できない旧家だったので、叔父も仕事をしながらそちらに住むことを余儀なくされたためか、少々遺産を使い込んでしまう。
叔父はこのまま住み続けなくてはならないのであれば、従兄弟に当たる娘と結婚してもらえないかと「私」に提案するが、つれなく断られる。相変わらず、東京生活を楽しみ、休暇になると帰省するという自由奔放な「私」。(お坊ちゃんは無意識のうちに「利己的」な存在なのだろう。)
その後、叔父一家は、業を煮やしたためか、「私」を冷遇するようになり、そうされることで、鈍感な「私」も何かおかしいぞと気付くようになる。羽振りの良い叔父を疑い出し、両親の遺産を確認すると、すでに使い込まれていたことに気付く。(憤怒)
父親があれほど信頼していた叔父でさえ、金に目を眩(くら)ませて、悪人になるのか!こうして、激怒した「私」は、間に友人に入ってもらい、土地や家などの財産を現金に換えて、もう二度と故郷には戻らない決心をするのであった。
※ここまでで、ひと段落が付いた。
私自身(ブログの筆者)が高2の頃にも感じたことだが、叔父に騙されたと息巻く「私」は、なぜこれほど極端な思考の持ち主なのだろうか。叔父の苦労を考えれば、資産を1/4ほど譲り、今後もこの家を護ってほしいとお願いすれば充分だったはずなのに、「私」は、身内の親切を無料だと決めつけ、自分が一番カネにこだわる幼さを露呈してしまう。あれも僕のものだから触らないで、でも片付けや保管はちゃんとしてね、というちびっ子理論には驚かされる。
ふと思い出したのは、映画『火垂るの墓』だ。親の遺産を持って、親族の家に転がり込むのに、なぜ自分たちの資産を全く譲らないのは、理解に苦しむ。
コスト意識がないのは未熟だから、で片付けてよいものだろうか?人生というものは、0か100かではなく、「程度問題」だということを、いったい人はいつ学ぶのだろうか?
(振り返ってみれば、高2生の頃の自分は、1990年だったが、なぜそれほど冷めていたのかも気になってしまった。)
ともあれ、全資産を持って、東京に下宿宿を探す「私」は、軍人の未亡人が大家さんの素人下宿屋(民泊?)で生活するようになる。叔父に騙された(と強く思い込んだ)、猜疑心の塊の「私」は、下宿先の「奥さん」や「お嬢さん」も、また「私」を騙すに違いないと疑いの眼差しを向け続ける。ところが、「奥さん」や「お嬢さん」は「私」を「鷹揚な方だ」「難しい本ばかり読んでいる先生だ」と褒め称えてばかりいるので、少しずつ人間不信も癒されて、彼ら信頼するようになっていく。また、2つ下の女学校生「お嬢さん」に恋心を抱くようになっていくのであった。
順風満帆な日々を過ごしているある日、同郷の幼馴染みで、同じく東京に出てきた「K」の窮乏を知る。
浄土真宗のお寺に生まれたが、医師の家に養子に出され、東京で医学を治めるはずが、哲学を勝手に学び、止せば良いのに養家や実家に、医者にはならんと告げて、勘当されてしまう。生家の宗派よりも禁欲的な彼はその状況を喜び、精進を続けるものの、人夫としての労働や貧相な食事は、彼の心身を蝕み始めることになった。
頼る人がいない「K」にかつての自分自身を重ねた「私」は、何とか力になりたいという、お節介を働かせてしまう。学費や生活費に困って神経衰弱に陥りそうになった「K」を、下宿に呼び込むことが、この物語の大きな悲劇の始まりになる。
※この時、「奥さん」は「あなたのためにならないから止しなさい」と諌めているところが伏線として、良いアクセントになっている。「美しい同情心」を持った育ちの良い「私」の性格は、彼を見捨ててはおけないという設定があり、「奥さん」が反対しようがどうしようが、この運命の導きには逆らえず、こんがらがっていくのである。
さて、、「K」は「私」に生活費などを支払ってもらっていることも知らず、狭い空き部屋で間借りするだけだという認識でいる。今までと変わらず、「道のためにすべてを犠牲にする」「精進を続ける」生き方を貫こうとする。当初はぶっきらぼうで、「奥さん」や「お嬢さん」に接していたが、次第に「お嬢さん」と2人になる時間が増えていく。
それを見た「私」は、背も高く、一途で、頭脳も明晰な「K」に嫉妬し始めるが、面と向かっては言葉に出せない。
(※ ここでも、やはり「私」の身勝手さが表面化してしまう。つまり、こういう訳だ。「K」は女性に興味を持たないはずだ。彼の頑固な心を癒すためだけにここに置いてやっているのだ。癒しと精進以外を「K」は求めるべきではない。こういう決めつけがこの物語をさらに混乱させていくのである。)
ある時、議論となり、「私」が恋愛を擁護するような発言をすると、かの有名な台詞、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」と「K」から軽蔑されてしまう。個人的な欲望で始終するのではなく、普遍的な価値を探究する生き方をするのが、学生の本分であろう、という訳なのだ。「お嬢さん」に恋心を抱いていた「私」は傷ついてしまう。
※この小説では、「軽蔑」「自尊心」「世間体」「良心」「利己心」がキーワードになっている。
なんだかんだがあって、「K」は恋愛については全く興味がないはずだと高を括(くく)っていたところ、ある日、「K」から「お嬢さん」が好きになったと相談され、「しまった!」と「私」は大いに焦燥に駆られるのであった。
※ここから教科書の採録範囲になる。続く
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