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KokugoNote #29哲学対話
皆さん、こんばんは!
皆さんが試験勉強をするように、先生も授業の在り方や新たな実践について日々、勉強しているのです。今回は授業で実践してみた「哲学対話」の運営手法を学び直すために、武庫川女子大学名誉教授の先生が開催されたワークショップに参加してみました。あとから判ったのですが、参加者の方のほとんどが大学の先生で、先生方を相手にビシバシ意見をぶつけていたのかと思うと少し肝を冷やしてしまいました。が、反省はなく、前はどんどん進むつもりです!笑
以下はそのレポートです。暇なときに読んでみてください。絵本『大きな木』は読んだことのある人も多いと思うのですが、もし読んでいなくてもあらすじも載せているので、大丈夫です。興味を持ったらまた質問してくださいね。
先日、府内某所で、再び哲学カフェを体験してきた。もう一度、丁寧に手法を学ぼうと考えただめだ。
10名ほどが集まる中で、ファシリテーターの先生によるP4C(philosophy for children)の趣旨などご説明いただいた。
まず、発言者のシンボルであるコミュニティボールを作るために、毛糸を巻きながら自己紹介するというところから始まった。
チラシを丸めた芯に毛糸をくるくる巻きながら、最近、自分が夢中になっていることを話すというアイスブレイク。1人が補助をし、1人が毛糸を巻き巻きする。あまり速く巻き過ぎないようにして、話を聞く雰囲気を醸成していく。
当然のことながら、それぞれ独立した生活時間を過ごしているため、関心事は大きく異なり、共時的にどのような世界にいるのかが窺えて、とても興味深い。
一周したら、筒を抜き、ぐるぐる巻きの毛糸を結束バンドで綴じて、所々で切断し、ふわふわのボールにして、完成という訳だ。切るときには強く縛り直しておくこと、また切断の時は新聞紙などを敷いておくと後の掃除が楽なので良い。
このボールは、コミュニケーション・ボールではなく、ひとつの思考をめぐるコミュニティを築くためのボールという意味なので、注意が必要だ。
ハワイのP4Cで実施しているものを再現したが、オーストラリアなどではトーキング・ボールを転がして、対話するという形式を取っている。
ボールを手にする人が発言を行うが、発言に詰まったら「考え中」と言って、他の人に回していくと良い。発言に際しての注意事項は、自分の言ってほしくないことは相手に言わないこと、相手の人格を傷つけないこと、
最後に発言には理由を添えることである。
また、ファシリテーターの立場にある人は、発言が滞ったり、堂々巡りをしたりした時には、違った視点を与えられるように対話を構造的に捉えられるように努めて欲しい。
なぜなら、この哲学対話は、子どもたちに論理的な思考力を育成するのが目的だからだ。
さて、いよいよ導入だが、P4Cでは基本的には絵本などから入ることが多い。今回は、シェル・シルヴァスタイン著『大きな木』(村上春樹訳、2010年、あすなろ書房)の絵本が課題本とされた。
あらすじはこちらを参照のこと。
https://pictbook.info/ehon-list/ookina-ki/
Wikipediaでは、このようなあらすじ。
「リンゴの木と少年は友達であった。ともに遊び、心を通わせていた。しかし少年は大人になってゆきお金が必要になる。
木は「私の果実を売りなさい」と言う。少年は果実をすべて持っていった。しばらくして、大人になったその子は家が必要になる。木は「私の枝で家を建てなさい」と言う。その子は枝をすべて持っていった。
また時が経ち、男は「悲しいので遠くへ行きたい」と言う。木は「私の幹で舟を作りなさい」と言う。男は幹を持っていった。
時が経ち、男は年老いて帰ってきた。そして「疲れたので休む場所がほしい」と言う。木は「切り株の私に腰をかけなさい」と言う。男は腰をかけた。木は幸せであった。」
また、訳者の村上さんは、あとがきにこのように記している。
「物語は単純だし、やさしい言葉しか使われていませんが、その内容は誰にでも簡単にのみ込めるというものではありません。そこにはできあいの言葉ではすらりと説明することのできない、奥行きのある感情が込められています。美しい感情があり、喜びがあり、希望の発芽があるのと同時に、救いのない悲しみがあり、苦い毒があり、静かなあきらめがあります。それはいわば、人間の心という硬貨の裏表になったものなのです。」
この後の手順は次の通り。
①ファシリテーター先生が読み聞かせをする。
②読み終えたら、気付いたこと、感じたことを各自、発言してもらう。その発言をホワイトボードに書き込んでいく。
③その感想を疑問文にしてもらう。
今回は次のようなものがあった。
人間の欲望にはキリがない?
欲望とは何か?
相手が望むものを与えることは幸せなのか?
誰が誰に対して残酷なのか?
残酷とはどういうこと?
どうして少年は一方的に望むことばかりなのか?
④ひと通り書き出してから、問いで似ているものを繋いでいく。これは参加者に委ねる方が良い。カテゴライズの仕方が子どもは大人と違うときがあるからだ。その過程を経て、
10個くらいの問いが4個くらいになる。議論が拡散しないように出来るだけ根源的な問いに収斂(しゅうれん)させることが肝心。
今回は、
欲望とは何か?
幸せとは何か?
残酷とは何なのか?
の3つに絞られた。
⑤そこで、どの問いについて議論したいか、挙手を求め、多数決で決める。
⑥今回は「残酷とは何なのか」となった。
※議論をする際に、問いを押し付けてしまうと子どもたちは関心を持たないことが多い。子どもが出した問いについて発言をしてもらうと、意見が出やすい。ファシリテーターが方向付けないように気を付ける。
※板書は無理にしなくても良い。
主要な意見を整理してみた。
Aさん
物語を聞いていて、辛くなってきたのは、木は許すが、少年は犠牲を強いる一方であること。木は動けないが、少年は動けるという不平等性がそのことを更に印象付けてしまう。けれども、Cさんの人と木とは違う時間を生きているという話を聞いて少し希望が残されていた気がした。
私は少年にではなく、木に自分自身を投影した。失われていくものに注目した。木にはまた新しい芽が出るかもしれないという希望もあるのだろう。
Bさん
あまりに一方通行ではないか。木は与えるだけで、少年は求めるだけ。木は一緒に遊んで欲しいのに、少年はそうではない。そのズレが目立つ。確かに木に共感できるところもあるけれども、そんな風になってたまるかという気持ちもある。できるだけ一緒に子どもにいろいろなことをしてあげたい。安心して帰ってこられる親になれたらいいなと思う。
Cさん
植物学的に言うと、自然環境下にある木はいつも過酷な環境にある。私たち人間とは異なる感覚で生きている。少年とのやりとりはよくある出来事のひとつ。むしろ普段出会うことのない少年がやってきたことの方が嬉しいのではないか。彼らは全く別の時間を生きているのだ。私も少年と同じように、植物から枝や葉を貰っているのが日常なので、僕も少年かもしれない。ただ少年が対話にもっと応じてみれば、もっと幸せになれたのではないかと思う。
Dさん
残酷なのは、木も少年も同じではないか。少年は木の痛みを知ろうとしないし、木は自分の正義感で与え続けていること。そのやり方は本当にその人のためになるのだろうか?主体性を奪うやり方ではないのか。
Eさん
木を少年の親と見立てると、親のお節介はごく自然なことだと思う。自分が少年の立場にあった時、親に対して同じように接してこなかったか?本当に親の望んでいたことに応えてきただろうか?
Fさん
この物語から自分の親のことを想像した。18歳から30歳まで一人暮らし生活をしてきた。6年前に結婚してから先日、初めて実家に泊まった時、母親はこう言った。「久々に家族全員揃ったね、来てくれてありがとう。」
2人の完結した関係に対して傷つけ合う関係でも良いの?という問題は難しいテーマだ。法学部出身なので特に関心が深い。家庭の問題に民法はどこまで入っていくのか?子育て自体は社会の問題だという捉え方、プライベートなものとしての捉え方。どちらで解釈すべきか。本人たちの幸せとは何なのか?その時は不幸だと思っても、振り返れば幸せだったかもしれないということもある。少年に出会えなかった木もたくさんあっただろう。
Gさん
この物語を環境問題として捉えてみた。どんどん森林が失われていくことに対して、どのように歯止めをかけられるのだろうか?
Hさん
子どもがこうして欲しいという欲望を出してきて、応じている形なので、一方的ではないだろう。私は4人兄弟の末っ子で、すでに親は亡くなっている。自分のやりたかったことを既にやってしまってから報告をしてきた。親はそれらをすべて受け入れてくれていた。子ども3人いるが、子どものために犠牲になってたまるかとは思えない。
先生(ブログの筆者) ※多くの人が残酷だ、可哀想だという意見に流れそうだったので、反対の立場を取ってみた。
決して残酷ではないと思う。木は与えることで満足している。少年は受け取ることで望みが叶えられている。二者の間に残酷さが介在している訳ではない。外部の価値観で勝手に、一方的だ、残酷だというのはお門違いではないか?DVのケースと違うのは、第三者が物語に参加しておらず、そこに社会がないこと。(例えば、他の木が枝や幹を切られる姿を見て、恐れを為したり、少年が木を役立てようとするのではなく、無意味に傷つけたりしているのとは、今回は異なるケース)
木が元の形を失っていくことを可哀想だと捉える前提で話を進めているから、失うべきではない、とまず考えてしまうのではないか。木の立場になってみれば、自らを犠牲にしているかもしれないが、増えていくものもある。それは少年との想い出だ。失われる中にも得られるものがあるし、得られる中にも失われるものがある。少年の主体性が失われてしまうとか、自己犠牲が過ぎるとかではなく、物事の捉え方で救いを見出したい。
Iさん
欲望にはキリがない。二者の関係で満たされているのであれば、残酷かどうかは第三者という判断はどうなのか?社会の中では、例えばDVなどはそれで良いの?
ファシリテーター先生
文中にあった木は幸せではないよね?という一文。逆に言えば、木は削られているというネガティブな事態にある。本当は木は幸せではなかったのだろうか?
※洋書を持っていたので確認すると、ここは本文では、and tree was happy...but not really.とあり、この一文が誰の発言なのかが不明で、訳者の主観が入りやすいのは確か。not reallyは、「そんなことないよ」くらいの断言を避ける言い方なので、幸せだったとは言い切れないかも、、くらいのニュアンスで捉えて良いと思うが、村上さんの訳は、「それで木はしあわせに、、、なんてなれませんよね」とある。読者の解釈を大きく変えてしまう文なので、注意が必要かも。
木はSHEなので、母親と子供という関係。
最初読んだときは腹が立って仕方がなかった。信頼関係がそこにある。絶望状態になった時にも、木の元に帰る少年。最後に戻ってくる場所。何かして欲しいという次元とは違うものがそこにはある。
Jさん
木も少年もどちらも幸せになれるなら良いのでは?子どものために身を犠牲にして子育てが出来なくなるとしたらそれはどうかと思う。若い命を助けるためには行ったことは本当に幸せになるの?親がいないことがいいことなの?
Kさん
この物語を聞いていて、母親のことを思い出した。もはや認知症になっていて、私のこと解らない。この物語で木が切株になって、体を休めるのに使っておくれと少年には呼びかける場面がジーンと来た。私にとって母親は生きていてくれているだけでも支えになっている。この物語は母親と我が子の話だ。父親に対する関係とは違っている。
⑦振り返りシート(よく聞けていたか?考えたことは何か?新しい発見は?考えは深まった?なるほどと思った意見は誰のどんなもの?)に書き込む。
それをシェアして相手が何をどう思っているのかを伝え合うと、人間関係が深まる。また、それぞれの考え方を知ることができる。
以上。
その他。
ファシリテーター先生に、大勢で哲学対話をするにはどうしたら良いか?質問してみた。
20人が内側でまず参加する。外側で20人はぐるりと囲み、評価票を書く。発言したくて変わって欲しい外側の人は前の人を叩いて代わってもらうこともできる。
さらに哲学対話担当係を作っておいて、良い発言をしたり、議論を展開させたり、優れた反例を出したりしたら、拍手するようにしてもらう。また先生がファシリテートすることを真似して貰ったりする中で、このような展開になればこう発言すると良いと学んでいくと、ファシリテートする力を身に付けられるようになっていく。
話す、聞いてもらうだけで違う空間ができるということを実感してもらうことが何よりも大切なこと。