見出し画像

感性が導く、無言の世界。写真集はあらゆる言語より豊かに語る|世界を読む技術

論文、データ、ニュース、地図など、あらゆる情報を正確に読み解くには「読む」技術が必要です。本企画では、さまざまなジャンルの「読む」エキスパートのお話から、研究や学びにおいても不可欠な「読む」という行為について再考し、読者の世界を広げるきっかけとなる記事を目指します。

東京・吉祥寺にある写真集専門書店「book obscura」。井の頭公園のすぐ裏手に位置し、初めて写真集を手に取る若い客も多いという同店で、「写真集を知る」展と題された企画展が4月、5月と続けて開催された。

店主・黒崎由衣さんによる序文は「写真集は私にとって読み物だ」という一文から始まり、「写真を撮る参考書でもなく、イメージビジュアルでもない。小説や映画や漫画と同じように観て、捲って、その世界観を読むものだ」と続く。

写真集を「読む」とはどういうことなのか。そこから見えてくる「世界」とは━━。黒崎さんとの約2時間の対話は、時空を超えて遠く100年前のチェコを経由し、やがて今を生きる自分のあり方へと辿り着く。


写真はあらゆる言語より豊かな「言語」

━━「写真集を知る」展の序文には「写真集は私にとって読み物だ」とありました。写真集の主役は当然写真で、文字や言葉はほとんどない。普通に考えれば、写真集は「読む」ものではなく「見る」ものではないですか?

そうでしょうか。もちろん人それぞれの捉え方があっていいと思うのですが、私自身、写真は地球上のあらゆる言語より豊かな「言語」だと思っています。

━━写真は「言語」。どういうことですか?

私が生まれて初めて手にした写真集は、ヨゼフ・クーデルカの『Exiles』という作品でした。その出会いがあまりに衝撃的だったことで、この世界にどっぷりとのめり込んでいくことになりました。

時間があれば神保町の古本屋街へ通っていた時期がありました。普通の読み物の棚、美術系の本を見尽くして、当時15歳の私は、写真集という棚があることに初めて気がつきました。そこでたまたま手に取ったのが、このチェコの写真家の作品でした。

パッと開いた瞬間に「なぜこの人はこんなに寂しそうなのか」と思いました。見てください。1枚目からもう「ぼっち感」がすごいでしょう?

━━確かにそうですね。

めくれどめくれど、ひとりぼっちです。ひきこもりの、「一人大好き人間」の自分と似た匂いを感じました。何が映っているかとか、景色が綺麗とか、そういうことではなく。とにかく寂しさ、悲しさ、つらさばかりが伝わってきました。

なぜこんなにも伝わってくるものがあるのか。なぜ私がそれを受け取れたのかが、すごく気になりました。気になり過ぎて、クーデルカについて調べ尽くしました。当時はインターネットもなかったので、神保町を歩いて、クーデルカのインタビュー記事が載っている本など、何か手掛かりはないかと探し回りました。

その結果、私は写真集の背景を知ることになります。クーデルカが「プラハの春」と呼ばれる内戦を撮影し、そのフィルムを国外に持ち出して、コンテストで入賞したこと。けれども、そのことにより追われる身になったこと。他ならぬ彼自身が「Exile=亡命者」だったことを知り、「だからこんなにも寂しそうだったのか」と、納得する気持ちになりました。

しかし、私がそれを知ったのは後の話で、初めて写真集を手に取った時点では、何も知らなかったわけです。にも関わらず、文字も言葉もなしに、これほど伝わってくるものがあったのはなぜなのか。依然として解けないままのこの謎が気になり過ぎて、そこから写真や写真集にハマっていったのです。

━━文字なしでも伝わってくるものがある。それが言語的だった、ということでしょうか?

「写真記憶」という言葉をご存知ですか? 目で見た情報や風景をそのまま写真として記憶する能力をそう言うのですが、私は幼い頃から、こういった記憶をする人間でした。先生が黒板に書く内容も、教科書の中身も、すべて写真として記憶しているので、ノートを取る必要がなく真似だけしていました。

他方、私は難読症で、文字が読めません。私にとっての文字は、ただの形でしかない。「愛」という字を見ても、意味に辿り着かないんです。そんな私にとっては、写真こそが文字通りの「第一言語」でした。

「優しい」と書いても、「やさしい」と口に出して言ってみても、私が母から注がれてきた「優しさ」を言い当てている言葉が見つからない。その代わりに、私の脳内には、母の「優しさ」を的確に表象するたくさんの「写真」があります。

━━あらゆる言語より豊かな「言語」、というのはそういう意味ですか。

「ありがとう」と伝えたいと思った時は、文字や音で伝えるのが一般的だと思います。ですが、私の「ありがとう」は「写真」になってしまっているので、それを変換出来る「言葉」が見つけられず、誰かに伝えられないもどかしさが、当時の私にはありました。

そんな時に出会ったのが、クーデルカのこの写真集だったのです。文字も言葉もなしに伝わってくる寂しさを前にして「私の他にも、写真を第一言語として使う人がいた!」と思いました。しかも、その写真は私の「写真」よりはるかに豊かな言葉を放っていました。

その後もたくさんの写真集と出会い、さまざまな「寂しさ」や「優しさ」と出会う中で、写真はあらゆる言語より豊かな「言語」なのだと確信するに至りました。言葉では伝えられなかった「優しさ」が写真集に存在していたからです。

「写真」と出会ったことで、埋めたかったものがようやく埋まった感覚と言えばいいのでしょうか。

写真集の印象は3度変わる

━━では改めてお聞きしますが、「写真集を読む」とは具体的にはどういうことですか?

前提として、写真集に正しい読み方、正しい解釈というものは存在しません。どう読み解いてもいいものだと思います。もちろん作者自身が意図したことという意味での「正解」は存在するでしょうが。それは、辿り着きたければいずれ辿り着くものですし、必ず辿り着かなければならないものではないとも思っています。

私は写真と写真集の20年来の研究者でもありますから、文章化・言語化する際は1ページずつ、写真史的、写真集史的背景を調べ尽くします。ですが、そのすべてを語ることはしません。店の商品説明にしろ、ホームページに書く文章にしろ、情報の提示はしても、「作者はこういう意図で、こう撮った」というような、確信に迫る言葉は書かないようにしています。読む人の感性に従った読み方を邪魔することになるからです。

━━読み方に正解はなく、どんな読み方をしてもいい。では、黒崎さんご自身がどんな読み方をされているのかを伺えますか?

新しく買った写真集を読む時には、必ず同じ手順を踏んでいます。まずは出版社や作家による説明文は一切読まず、自分の目、自分の感性だけで読みます。

100回くらいは繰り返し読むのですが、「自分はどう感じたか」「なぜそう感じたのか」などと自問自答を続け、自分なりの「こうではないか」を言語化して、勝手な解説を作ります。そこまでやった段階で初めて、出版社や作家による説明文を読みます。そうすると必ず、自分なりの解説文と内容が一致しているのです。

━━必ず、ですか。

その上で、さらに解釈を得るために、作家が育った環境や歴史背景などを調べ始めます

このようにして読むことで、写真集の印象は大きく三度変わります。今ここで実演することもできますよ。やってみせましょうか?

━━ぜひお願いします。

これは私が人生で2番目に出会った写真集。クーデルカについて調べていた時に出会った、同じプラハで育った写真家、ヨゼフ・スデックによるものです。「死んだら棺の中に入れてくれ」とお願いしているくらいに、私が大切にしている作品でもあります。

では、まずは情報を入れずに、それぞれの感性に従って読んでみましょう。(ぱらぱらとページをめくりながら)どんな印象を受けますか? ああ、綺麗。あ、私は綺麗だと思いますが、皆さんは別の感想を持ってもらっても大丈夫です。好き勝手に見ていただいて構いません。

どうでしょう?

━━モノクロだからか、光の描き方が印象的だなと思いました。でも結構な枚数があって、作風やモチーフが途中で変わっていった気がするので、トータルで感想を言うのが難しく感じました。

なるほど、いいですね。では、ここから説明していきますね。

ヨゼフ・スデックは20世紀初頭のチェコの写真家です。カメラは独学で学び、第一次世界大戦で腕を失くすのですが、その後も時間があればプラハの街へ出て、写真を撮っていました。

最初の1枚は1915年のもので、そこから約40年間分の作品が時系列に並べられています。腕を失くしたのは、ちょうどこのあたり。記録係として軍に所属していた時の写真です。腕をなくした後の写真は、ちょっと途方に暮れているようにも見えますね。

「光と影の絵」というのがフォトグラフィーの語源ですが、それを感じさせる、光が印象的な一枚などもあります。とても美しい世界に見えますが、被写体は退役軍人の病院です。窓には脱走を防ぐ格子が入っていたり、靴は二足あるのに奥の人の片足がなかったりと、悲しい背景もよく見ると写っています。

スデックは時間さえあればプラハの街へ出ていったので、とにかく街の風景写真が多いです。けれども、ページをめくっていくと、徐々に街の写真ではなくなります。郊外や森に変わり、さらにアトリエの中へと移る。なぜでしょうか。

━━うーん、腕の状態が悪くなり、重い機材を持ち運べなくなったとか?

それもあったかもしれませんが、プラハの歴史と照らし合わせると、答えが分かります。ちょうどナチスの占領下になり、ユダヤ人が街へ出られない状況にあったのです。このあたりのポートレートは、毎週火曜日にスデックの家に集まっていたユダヤ人を写したものだそうです。

けれども、ここに至ってもスデックの写真には哀しみの色がありません。「アンデルセンのように被写体すべてに命を吹き込みたいのだ」という言葉も残しているように、どんな状況に置かれても希望溢れる写真を撮り続けたのがスデックです。最後の写真は、切った後も花を咲かせるバラを写した一枚。まるで腕を失くしても写真を撮り続けた彼自身かのように思えませんか。

このように、チェコの歴史や彼自身の人生を調べることで浮かび上がってくる情景があります。最初に読んだのとは違った印象が残ったのではないでしょうか。

━━面白いです。

これが第2の印象です。そして第3の印象というのは、作家本人に話を聞くことができれば返ってくるだろう印象のこと。同じ写真がより生々しいものとして映るはずです。

ただし、スデックはすでに亡くなっているので、それは叶わない。だから私が死んだら棺に入れてもらって、秒速でサインをもらいに行こうと思っているんです。

最も大切なのは自分の「内側」で読むこと

━━写真集をぱらぱらとめくって「見て」終わりにしていたのが、いかにもったいなかったかが分かりました。

人は知らず知らずのうちに自分自身の価値観、考え方に従って写真を見ています。ですから、パッと手に取って一読しただけでは、自分のイメージの範囲でしか読むことができません。

これは写真に限った話ではないかもしれません。クリスチャンと仏教徒では考え方がまったく違いますし、沖縄に住んでいる人と北海道に住んでいる人でも価値観は違いますから、表面的な言葉の意味をなぞるだけでは、相手の真意を理解することはできません。

自分とまったく異なる価値観・考え方を持った写真家の作品を本当に読みたいと思ったら、その人がどういう国の人で、どういう宗教観を持っていて・・・というのを、その人になりきるくらいのレベルで探らなければならない。その人の目を借りなければなりません。

━━なるほど、写真家自身の目を借りる。

デザイナーや編集者、装丁師など、写真集は作家以外にもさまざまな人が関わって作られていますから、それぞれの目を借りることで、また違ったものが見えてきます。

余白、写真のサイズ、写真集のサイズ、材質など、すべてがその作品の表現を支えるべく設定されています。スデックのこの写真集がソフトカバーではなくハードカバーなのは、それだけ丁寧に、ゆっくりとページをめくってほしいという、制作チームからのメッセージかもしれません。

━━深く読もうと思ったら本当に際限ない知識がいりますね。

知れば知るほど面白いですよ。

でも、矛盾するようですが、「写真集を読む」ことに関して私が一番伝えたいメッセージは「自分を大切にすること」です。自分の言葉で、自分の解釈で読むことが一番大事。もちろんいろいろな観点から背景を調べるのも大事なのですが、その後にちゃんと自分に照らし合わせることができるかどうか。

人が自分の中に持っているイメージは、一人一人すべて異なります。その異なるイメージの分だけ、異なる読み方ができるはずなのです。たとえば、私のパートナーは色弱なので赤などが見えにくいのですが、そんな特徴を持つ彼だからこそ気づけるものがある。それは素晴らしいことです。

同じ言葉、同じ漢字、同じ音だったとしても、そこから想起するイメージは全員異なります。たとえば「海」という言葉。青く美しいビーチを思い浮かべる人もいらっしゃるでしょうが、東京生まれ東京育ちの私にとっての「海」は、工業地帯の、グレーで、何か匂ってくる海。泳ごうなどとは絶対に思えません。

それくらいに一人一人持っているイメージが違うことを理解しなければ、作品を読み解くことなどできません。そして、まずは自分の持つイメージを大切にすることなしには、他の人の理解などできないということです。

となると、他人が使っている「海」のイメージを自分のものとして使うのは、Google検索で一般的なイメージを探しているのと変わりません。そうなるとあなたの必要性がなくなってしまう。使えるものは、自分の内側に山ほどあるんですから、自分の内側で読むことを大切にしてほしいと思います。

━━まず感性に従って読み、情報を入れるのはその後という順番は、そのためなんですね。

その人がいいと思うもの、心地いいと思うものはそれぞれ違います。だからこそこんなにもたくさんの種類の写真がこの世界にはあるのです。私はその感性を邪魔したくないと思っています。

「いいね!」で終わらせず、立ち止まれるか

━━今日のお話は、写真以外と向き合う時にも通じる大切なことだった気がします。それにしても「写真が第一言語」と言いながら、黒崎さんは豊かな言語をお持ちだと感じました。

24時間365日、夢の中でさえも写真のことをずっと考えているような人間なので。考えたことを言語化するために、作家の過去のインタビューを参照することもありますし、店を訪れてくれた際には、作家本人に私の解釈をぶつけることもあります。そして返ってきた言葉について、また考える。その積み重ねかもしれません。

この店を訪れるお客さまは、写真集を一冊も買ったことがないという方がほとんどです。「最初に買うのにおすすめはありますか?」とおっしゃる方ばかり。これが写真集を取り巻く、2024年の現状です。

ですから、分かりやすさは常々心掛けているところです。カッコつけてばかりいても、私の大好きな、みんなに見てもらいたい写真集は広がっていかない。お客さま一人一人の感性を殺すことのないよう注意を払いながらも、分かりやすく説明することが、この店の役割なのかなと思っています。

━━間口は広く、それでいて奥に広がる世界の豊かさを知ってもらうというのは、塩梅の難しい挑戦になりますね。

そのあたりは、日頃の「壁打ち」の成果もあるかもしれません。新しい写真集を買ってくると、自分が伝えたいその魅力を言葉で伝えられるか、パートナーで実験しているんです。。「こうだから、こう思うんだけど、どう?」と投げかけて返ってくる言葉を聞いて「うーん、そういうことじゃないんだよなー、じゃあこういう伝え方かな?」などと、毎晩やっています。彼はある意味、写真を言葉にするための被害者。こういうところで話す言葉や、店に出ている言葉は、その試行錯誤を経たものです。

━━なるほど、毎晩の「壁打ち」があってこその分かりやすい言葉なんですね。先ほどはさらっと「100回読む」というお話もありましたし、質以前に量が違うのだなと思いました。「読める」のも「言葉にできる」のも、当たり前かもしれませんが、それだけ繰り返しトライしているからなのだなと。

今は「いいね!」の時代ですからね。何か作品に触れて「いいな」と思っても、「いいね!」を押して終わり。何が良かったのかを自分なりに考え、言語化することがなされないまま、次へいってしまう。まるでピンポンダッシュです。

2014年のInstagramの登場以降、多くの人にとって写真を撮ることが身近になった反面、ピンポンダッシュの一発芸になってしまっている。これがこの10年の写真史・写真集史ではないかと思います。時間もないし、一方で情報が溢れている。人が生み出すものを捉えるのに精一杯で、その結果、自分を失ってしまっている状態とも言えます。

━━耳が痛い話です。

本来、解釈は人それぞれなんですから、「いいね!」に惑わされることなく、自分を貫き通せばいいんです。そうやって紡がれてきたのが、写真の歴史でもあります。

写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンは、「決定的瞬間」という言葉をタイトルに使ったことで知られています。それに対して「どれが決定的瞬間なのか」「決定的瞬間にはもっと動きがあるのでは」と言って、動きのある写真を出してきたのがウィリアム・クラインです。壊しにかかる人もいれば、受け継ぐ人もいる。それが歴史です。それが面白くて、私は20年間研究してきているわけです。

壊しにかかってもいい。反対してもいい。同意しつつも「今ならこうも言えるんじゃないか」と言ってもいい。ウィリアム・クラインがなぜ「動き」を持ち出せたかと言えば、ブレッソンの時代にはなかったテレビが、クラインの時代にはあったからです。

同じ作品を見て何に気づけるかは、その人自身がどんな時代を生きていて、何を考えているかによる。何かに気づいたのなら、それはあなたならではの気づき方。それを大切にしてほしいと思います。

黒崎由衣
「book obscura」店主。かつて東京・青山にあった『BOOK246』で店長を務め、その後、神保町の古書店で経験を積む。2017年、東京・吉祥寺に写真集専門店「book obscura」をオープン。

執筆:鈴木陸夫/撮影:本永創太/編集:日向コイケ(Huuuu)