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江戸戯作はミステリー。問われているのは「わからなさ」への態度だ|世界を読む技術

論文、データ、ニュース、地図など、あらゆる情報を正確に読み解くには「読む」技術が必要です。本企画では、さまざまなジャンルの「読む」エキスパートのお話から、研究や学びにおいても不可欠な「読む」という行為について再考し、読者の世界を広げるきっかけとなる記事を目指します。

江戸時代の識字率は、一説によれば80%を超えて当時世界一の水準だったと言われている。そんな江戸時代後期の庶民が楽しんでいたとされるのが「戯作」と呼ばれる文学。今回お話を伺った國學院大學文学部教授の中村正明さんはこうした戯作、中でも黄表紙、滑稽本と呼ばれる、いわゆる庶民文学を研究対象にしている。

同じ本を読んでいても、そこから受け取れる情報の深さや抱く感情は人それぞれ。実り多き読書には、当然ながら単に字を読み書きできるという以上の何かが必要なはず。豊かな「読む」を実現するのに必要なものとはなんなのか。江戸時代と現代の「読む」の比較から探っていく。


江戸時代、文学のあり方は大きく変わった

━━江戸時代の人々の「読む」を知るために、まずは先生の研究分野について教えてください。

大学院に入ってからずっと江戸時代後期の文学を研究しています。当時の江戸で興った通俗小説などの読み物の総称を戯作と呼びますが、その中でも現在研究が深まりつつある黄表紙や滑稽本を研究対象としてきました。

これらは高校までの文学ではほぼ習わない分野です。古事記、万葉集、平家物語といったメジャーどころと比べると、学生はほとんど接点を持たないまま大学に入ってきます。ですから、あまり興味を持ってもらえないんです。どうやって振り向いてもらうかというのは永遠の課題ですね。

━━実際にどうやって関心をひいているのですか?

1年生が対象の日本文学入門として『日本文学概説』という授業があります。そこで私は必ず「江戸時代の文学とそれ以前の文学では決定的な違いがある」という話をしています。

━━決定的な違い?

簡単にいえば、江戸時代以前の文学は写本と言って、手書きで書かれた本でした。ところが江戸時代の直前に印刷技術が海外から入ってきます。ここから印刷されたもの、出版されたものとしての文学が作られ、広がっていくようになります。

そうすると何が変わるのか。作者の立場からすると、写本の時代は身近な誰かを意識して書いていました。手書きで書き写すとなると、それを読めるのは身近な誰かしかいないですから。対して、出版文化が広がると、現代もそうですが、作者は不特定多数の読者を意識するようになります。たくさんの人々にとっての面白いもの、興味深いと思うものを意識して書かざるを得なくなるんです。

このように文学のあり方が根本から変わったのが江戸時代なのだという話をします。今の出版文化の基本は江戸時代に築かれたもの。こうして現在と比較しながら話すと、すごく理解してもらえますね。

━━なるほど。今日のように売れ線を意識するようになったのは江戸時代からだったんですね。

江戸時代にはマーケティングも行われていました。版元が身近な人たち、読者だったり仲間だったりに意見を聞いて、出版物の内容を決めるようになります。「この先生が書いたあの作品の評判はどうか」「なるほどこれだけ売れたのなら、今回も似たような路線でいこう」というように。そうやって流行を作っていく。だから今とすごく似ているんです。

━━まるでジャンプのアンケートシステムのようなことが行われていた。

そうなんです! 授業でもまったく同じ話をしていますよ。

江戸時代に出版されたもの、特に文学にはひらがな表記がすごく多いです。なぜか。それ以前の時代の知識・教養を持った人たちとは違う、新しい読者が参入してきたから。それはつまり庶民です。

平和な時代を迎えたことで、庶民が余暇に本を読み始めるのがこの時代。ですが、いきなり漢字は読めません。寺子屋などで教える「読み書きそろばん」も、かな中心。だからひらがな表記で出版されることになります。

われわれも小学生のころにはまず、かなから覚えましたよね。その後、漢字を覚えていって、徐々にいろいろな本を読めるようになる。そうやって結びつけていくと、江戸時代の文学のあり方は今のわれわれのあり方と地続きだとわかってきます。

黄表紙は現代のギャグ漫画?

━━あらためてお聞きしますが、戯作とはどういったものなんでしょうか?

戯作を始めたのは、江戸時代中期の「文人」と呼ばれた人たちです。もともと知識・教養を持っているのに、それを社会的に発揮できずにいた人たちが「どうせ社会に出られないのなら、文学で遊んでしまえ」といって、知識・教養を遊びの方面に向け出した。それが戯作だと言われています。

━━「知識や教養を発揮できない」というのは?

近世文学研究者の中村幸彦という人がそのものずばり『戯作論』という本を書いています。たとえば、武家に何人か子供がいたとしても、家を継げるのは長男だけ。次男以下も幼い頃から同じように勉強させられますが、そういう人たちは大人になっても限られた生き方しか許されません。
金持ちの家の娘と結婚して、そちらの家を継げればいいのですが。そうでなければ、モヤモヤを抱えたままいつまでも家にいて、社会に出られない生活を送ることになります。そういう人たちが持て余した知識教養をどうするかとなったとき、「だったら集まって遊ぶか」といって始めたのが戯作。つまり、戯作というのは文字通り「戯れに作った文学」という意味なのです。

それが徐々に広まっていき、町人たちも面白がって似たようなものを作り始める。そうして戯作は広がっていきます。

━━その中でも先生が研究対象とする滑稽本、黄表紙というのは?

滑稽本は読んで字の如く滑稽な内容の読み物を指し、もともとは洒落本というジャンルから派生しています。洒落本は遊里遊廓を舞台に、そこに集まってくる人々の人間ドラマ、喜劇を描いたもの。その舞台の括りを取っ払って、庶民の生活の中の面白おかしい出来事を描いたのが滑稽本です。有名どころで言えば『東海道中膝栗毛』。弥次喜多がドタバタ劇を繰り広げながら旅をしていきます。

一方の黄表紙も洒落本から派生したものですが、滑稽本の数十年前に文人たちの手によって作られました。いつも自分たちが遊びに行っていた遊里遊廓での遊び事をネタにした洒落本を、いっそ絵入り読み物化したら面白いんじゃないかと始めたもの。ですから、初期のものは遊里遊廓での遊びがたくさん描かれ、その後、庶民的なものも描かれるようになります。

黄表紙は文章にふんだんに絵が添えられていて、内容的にもひねりの効いたものが多い。ニュアンス的には現代のギャグ漫画に近いです。

一つ例を挙げると、有名な作品に恋川春町が書いたとされる『無題記』があります。遠い未来に江戸の社会がどう変わるのかを予想するSF的な作品なのですが、メチャクチャな発想で、今読んでも十分に面白いです。

━━どんな発想が?

たとえば、天と地がひっくり返る場面が描かれ、「地震は地面が揺れるから地震だが、遠い未来には天が揺れるようになる」「天から落ちる雷も、未来には地から上るものになる」などと馬鹿馬鹿しいことが語られます。あるいは「未来に向けて季節が少しずつずれていき、やがて夏と冬が一緒にくる時代がやってくる。暑くてみんなだくだくと汗をかくのだが、それが瞬時に凍ってしまう」など、大袈裟にしたり逆転したりといった発想で未来が描かれています。

━━今でこそ「何を馬鹿馬鹿しい」と思って読めますが、当時の人はどう読んでいたのでしょう?

変わらなかったようです。「何を言っているんだか」という感じで楽しんでいたようです。

「わからない」に潜むミステリー的面白さ

━━ところで、先生はなぜこの領域を研究することに?

なにぶん天邪鬼な性格なもので。学部生時代に卒論を書くにあたって、周りがみんな万葉集や源氏物語、平家物語といったメジャーなものにばかり行くので「それは嫌だな」と。江戸時代の文学は当時人気がなかったので「じゃあ江戸にしよう」と決めました。

江戸時代の文学にも井原西鶴や松尾芭蕉など、人気があるものもあります。結局はこういうところも後々勉強することにはなるのですが「研究があまり進んでいないところはどこか?」と考えて、戯作類に行き着いた次第です。

━━どんなふうに「読む」ことから始めたんでしょうか?

最初に黄表紙と出会ったときは、本当に娯楽として読みました。普通の読書と同じです。図書館にある複製版をコピーしてきて、通学の電車の中で面白がって読んでいました。

━━通学の電車で黄表紙を!

読み始めて気づいたのは、内輪ウケのネタが多いということです。読んでいてまったく意味のわからない文章が出てきます。調べてみると、どうやらそれは作者が知り合いに向けて書いた一文らしい。そういうものがさりげなく入っているんです。現代のマンガにも、一部の人にしか伝わらない小ネタが手書きで書き込まれていたりするでしょう。ああいう感じです。

そういうものが結構散りばめられていて「なんじゃこりゃ?」というところからスタートしました。「これがわかるようになったらもっと面白く読めるぞ」と思ったことで、どんどんのめり込んでいきました。

━━面白がれたのはなぜでしょう。わからないことばかりだと「つまらない」となる人もいそうですが。

黄表紙に関心を持つ前、卒業論文で川柳について研究しようと思っていた時期がありました。江戸時代の川柳は「古川柳」といって、庶民生活のトリヴィアを取り上げて詠む五・七・五。そのため、一読しても意味がわからないのですが、読み解いてみると「ああ、そういう意味か!」となるものが多いんです。ミステリー的な読み解き要素があります。

「このことがわかると全部わかるな」という要素が川柳にはたくさんありました。そういう経験があったから、黄表紙に移ったときも「これ、なんだろう?」となったら「作者の生活がわかれば、これも読めてくるはず」とミステリー的な興味が刺激されたのだと思います。

━━なるほど、そういう成功経験があったから。

黄表紙にはたくさん絵が入っています。どこを開いても絵がある。今でいうマンガ的な絵なのですが、面白いのは、文章に書かれている内容とはどこか「ずれ」があります。文章の方には「彼はこういう行いをして、喜んだ」と書いてあるのに、絵に描かれている人物はうんざりした顔をしていて、傍に「早く帰りたいな」などと書いてある。物語の大筋としては変わらないのですが、そういう食い違いが出てくる。そこがまた面白いんです。

この食い違いは何を意味しているのだろう。それを理解するためにまた、いろいろと調べ始めます。表層的な意味を知るだけでなく、その根底にある部分を面白がって調べるところから、研究は始まっていきます。

娯楽というのは基本的に、その時代の時代性と密接に結びついたものが多いです。遊里遊廓がよく描かれるというのもそう。現代に同じものはないですよね。風俗業はありますが、やはり少し違う。そうすると、当時の遊里遊廓がどんなものだったかを知らなければ、理解はできないことになります。

江戸戯作には、当時の流行が盛んに描かれています。流行の服装。流行した言葉。それらは現代のわれわれからすれば「なんだ、これ」となってしまうのですが、当時の人はここを面白がったのだろうなあ、と。

━━江戸時代の人の気持ちになって「読む」ことも?

だんだんといろいろなことがわかってくると、そうなります。「ああ、これは当時の流行語だ!」というのがわかってくると、俄然面白さが増してくる。先ほど黄表紙は現代のギャグ漫画に近いと言いましたが、ギャグ漫画を真に楽しむには、やはり「お約束」を知る必要がありますよね。

余白が「読む」を豊かにしていく

━━黄表紙を読んで本当に面白がるには、当時の生活や流行を知る必要がある。となると、黄表紙以外のものを「読む」時間が自然と増えることになりますね。

それはどの時代の文学でも同じだと思います。文学には必ず時代性が反映されるので。その時代のさまざまなことがわかっていないと、深いところまで掘り下げられません。

━━言われてみれば、なんでもそうかもしれませんね。たとえば、なんの知識もないまま1980年代のスペインの映画を見たとして、表層的なストーリーはなんとなく楽しめても、本当に理解しようと思ったら、スペインという国の文化や歴史を知る必要がある。

スペイン映画といえばヴィクトル・エリセ監督ですが、『エル・スール』など、主人公の父親がなぜ亡くなったのかという背景がわからなければ、まったくわからない映画になってしまいますよね。やはり読者や鑑賞者は選ばれる。わからない人にはわからない、というのは何においても出てくることでしょう。

━━わかる人、面白がって読める人になるのに大切なことはなんだと思いますか?

学生を見ていて思うのは「源氏がやりたい」「万葉集の和歌を研究したい」など、「これを研究したい」と明確に決めて入学してくる人が非常に多いということです。私は入門の授業で「そういうものを一旦外そう」と言っています。いろいろな時代、いろいろなジャンルの文学がある。そういうものを一旦フラットに入れてみて、その上で面白いと思ったものに取り組んでみよう、と。

中にはそれでももともとの興味にこだわる人もいますが。「狭い世界だけに居座っていては研究は広がっていかないし、深い読書もできないよ」ということを言っています。

━━周辺まで興味関心を広げることで、いろいろなものがつながってくる?

そうです。同時代であれば当然そうですし、違う時代であっても「一見関係ないと思われていた古い文学とこんな結びつきがあったのか!」という気づきはざらにあります。そういう意味では、いろいろなものを取り込まなくては深いものは読めないということです。

━━コスパ、タイパが重視され、いろいろと忙しくて余裕のない時代です。江戸時代に庶民が文学を楽しむようになったのは平和な時代で余裕ができたから、というお話がありましたが、現代はそうではないとすると、どうやってそこにあらがっていけばいいでしょうか?

先日何気なくみていた動画で、故・石原慎太郎元都知事が新たに入庁する若い職員に向けて、こうスピーチしていました。「仕事に一生懸命なのもいいが、何か一つでいいからのめり込める趣味を作れ」「それが仕事にも生きてくる」と。

趣味、要するに周辺に余白を作ることが、自分を豊かにしていきます。そういう意味では、大学の4年間は人生でもっとも余裕のある時間。「今のうちに何か趣味を見つけたほうがいいよ」と私も常々言っています。

━━先生は研究それ自体を趣味のように楽しんでいらっしゃるように映りますが、本業以外にも趣味が?

先ほど少し触れましたが、実は映画が死ぬほど好きです。以前は映画のパンフレットをかなり熱心に集めていました。あまりにお金がかかりすぎるので今はチラシに移っていますが。おいおい映画チラシの本を書きたいと思っているくらい。上の先生には「研究の本を書け」と怒られるんですけどね。

━━たまたま出した映画の例が、実はどんぴしゃだったんですね。やはりたくさんの引き出しをお持ちのようです。次回があれば映画のコレクションのお話もぜひ聞かせてほしいです。本日はありがとうございました!

中村正明
國學院大學文学部日本文学科教授。専門は近世文学(江戸戯作)、明治初期文学。2014年04月國學院大學に着任、近著に『膝栗毛文芸集成』全40巻(編著・ゆまに書房、2010~2017年)・『〈生ける屍〉の表象文化史』(共著・青土社・2019年)

執筆:鈴木陸夫/撮影:金本凛太郎/編集:日向コイケ(Huuuu)