リスク社会とワクチンの暴走(8)「凡庸な悪」との闘い
ハンナ・アーレント(1906-1975)という思想家,哲学者をご存じでしょうか。以前のこのnoteでも紹介したことがあります。彼女は,ユダヤ人としてドイツで生まれ,ナチス・ドイツ時代に,ユダヤ人収容所に送られるも,そこから脱走してアメリカに亡命し,アメリカで多くの著作を残しました。彼女の波乱の人生は映画にもなっています。
アーレントは,自分自身の生涯をかけて,全体主義と闘った学者でした。『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン』などはその代表作ですし,現在も再評価されて幅広く読まれている『人間の条件』は,現代を生きる私たちに進むべき指針を示して続けてくれています。私も,アーレントの著作から,どれだけ生きる希望を与えてもらったか計り知れません。
そのアーレントの最大の功績の一つが「全体主義の本質」を解明したことで,それを「凡庸な悪」と称しました。彼女は,ナチス親衛隊隊員でユダヤ人をガス室送りにした責任者として逮捕されたアイヒマンの裁判を傍聴し,アイヒマンは極悪人ではなく,ただ何も考えずに指示に従っただけの「凡庸な悪」であると主張しました。
つまり,全体主義の悪は,ヒットラーのような独裁者が作るのではなく,思考停止の凡人が作ることを見抜いたのです。アイヒマンを極悪人に仕立て上げたかった当時の世論はアーレントを激しくバッシングしましたが,アーレントはひるまずにその後も自分の理論を磨き上げました。
もし,全体主義という悪の本質がその国を支配する独裁者にあるのではなく,思考停止して支配者に従ってしまう凡庸な人たちであるとすれば,私たちが,働きかけないといけないのは,政治家や専門家ではなく,この「凡庸な人たち」なのです。
もちろん,ほとんどの政治家や役人そして専門家も「凡庸な人たち」ですし,コロナ問題に批判的な私の中にも「凡庸さ」は常に潜んでいます。しかし,この「凡庸さ」に対処しなければ,コロナ問題がたとえ解決したとしても,第二,第三の問題に見舞われることでしょう。システムは、その時はもっと巧妙に,もっと狡猾に人間を支配しようとしてくるに違いありません。
では,どうすればよいのでしょうか。まず必要なのは、自分自身との対話です。他人の凡庸さを批判する前に,自分自身の凡庸さを認め,つまり自分が思考停止している部分を認めて,そこを少しでも変えるにはどうすればよいのか。勇気を出して抵抗すればどうなるのか。こういうことを考えて,できることから実践していくことが必要です。
そうすれば、凡庸さに気づいていない身近な人たちが,あなたをみて自分の凡庸さに気づいてくれるかもしれません。もちろん,気づいてくれなくても構いません。自分の凡庸さに気づくということは,凡庸でない自分自身の尊厳に気づくということですから,それだけで自分は安定します。そして,そこに尊厳があれば,それは必ず伝播していきます。
逆に言えば、凡庸な悪とは、人間としての尊厳を失った人たちです。したがって、凡庸な人たちに、自分自身の尊厳を気づかせてあげることは、人間社会全体の尊厳を高めることに貢献します。そのために実行することは簡単です。納得いかないことには従わない。ただこれだけです。
その積み重ねで世界は必ず変わります。以前も引用しましたが、アーレントは,1964年に発表した「独裁体制の下での個人の責任」の中で次のように述べています。
「十分な数の人々が「無責任に」行動して,支持を拒んだならば,積極的な抵抗や叛乱なしでも,こうした統治形態にどのようなことが起こりうるかを,一瞬でも想像してみれば,この<武器>がどれほど効果的であるか,お分かりいただけるはずです。」(『責任と判断』ちくま学術文庫)
ここでいう「無責任」とは「凡庸な悪」に染まった人たちから浴びせられる言葉です。実際に,アメリカ,フランス,イスラエル,オーストラリアなどの国の凡庸な大統領や首相たちが、ワクチン未接種者を無責任と言い出しています。しかし,彼らに対して「無責任」を貫くことこそが,人類にとっての責任なのです。
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