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病んだ社会と精神障害

こんにちは、虚空坊主です。

新年1発目の記事が何やら暗そうな話題ですみません、が、これはポジティブな話題です、安心してください。

おれは常に考える、現代社会は病んでいる、病んでいるためか、病んでしまったためか、ほとんどの人間もまた病んでいる。
障害があることに気づかない人もいるし、もちろん程度の大小はあれど、しっかりとカウンセリングを受け、心の奥まで探っていけば多くの人が何かしらの精神的な障害を負っているのではないだろうか。

だが、この社会では障害は読んで字の如く障害として捉えられ、ほとんどの場合いい方に機能しない。
社会に迎合しろという謎の圧力に皆悩まされている。
この多様性に溢れる現代社会でいまだに戦時中のような合同意識が働いている、精神異常者が増えるのも当たり前だ、摩擦が多すぎるのだ。

しかし最近、友人と話したり考えたりするうちに障害についての解決策というか、希望のようなものを見出したので悩んでいる方は是非読んでいただきたい

例えばおれの障害というと、何かをしている最中でも思考が始まったら最後、それを止めるのはかなり難しい。
難しい上に、思考を見つけるとさっきの思考が消えるわけではなく、増える。
2つ同時、3つ同時に思考が行われることになる(3つで済んだらいい方である)

わかりやすく言うと、今自分はテレビを見ているとする。


自分が見たいのはテレビの画面なのに、ワイプが気になってワイプを意識しているうちに元のテレビの画面よりワイプの範囲がテレビの大部分を占めてしまうことになる。


その結果、テレビの内容が頭に入って来ず、しょうもないワイプの情報が脳の大部分を占めることになる。


ワイプが増えまくって元の画面が覆い尽くされることもある

テレビの内容が本当に面白かった場合はワイプは出現しないのだが、生きていて本当に面白いことに出会うことは難しい、大抵の場合ワイプが存在している。

認知する脳が複数あり、複数の脳を同時に使っているような感覚である

しかし思考能力には限界があり、二つの脳を二つとも100%使うことはできない、5:5だったり、8:2だったりする。

なのでおれは一方的な情報のインプットが苦手だと言うことに気がついた
一方的な情報とは、映画やテレビだったり、講演だったり、自分が干渉不可能な情報である
巻き戻して再思考することができない情報は、おれはほとんど身につけることができない、故に仲が良くない人、興味がない人との会話を続けることも難しい、聞けないのだ。

反対に、好きな人との対話や、本や絵や自然などの過ぎ去ることのない情報、再度聞いたり読み返したりできる情報から得れるものはかなり多いような気がする、これはこの障害のメリットでもある。

なので障害を障害として捉えて悲観するのではなく、自分の障害を見つめ直し、許し、認め、強みとして昇華させてあげることが肝心だとおれは考える

自分の本質的な弱さもこれと同じ解釈ができる、弱さの逆は強さであるが故に、弱さを認め、弱さを昇華させることで誰にも真似できることのない強さになるのではないかと信じている、おれも今自分の弱さを昇華させる修行をしている

おれが生きていて醜いな、気持ち悪いな、と思う人間は、自分の弱さに本質的に気づいているにも関わらず、その弱さを無視して取り繕った強さを纏っている人間である
この嫌悪感の根源は、おれ自身が変わるきっかけもなくダラダラと自分の弱さを無視して生き延びていった結果の人間に見えて気持ち悪い、言わば同族嫌悪のようなものがある。

と、同時におれが変わるきっかけができたのは友人や、一緒に暮らしている猫たちであるので、そういう存在に出会えなかったんだなという哀れみもある。

このことについて考えているうちに思い出したことがある、高校生の時に読んだ刃牙のワンシーンである

これは食事のワンシーンの言葉だが、今回の話に置き換えることもできる。
さすがは範馬勇次郎である、反論の余地を許さない完璧な思想、さすがとしか言いようがない。

人間、社会で生きていると避けようのないストレスの種はそこらじゅうにばら撒かれている
それを避けることに重きを置くのではなく、自分にぶつかってきたストレスに対してどう対処するかが肝心だとおれは思う。

それが人生という修行、ひいては人間として生まれた宿命なのかな、という答えに今は落ち着いている。

疾患のように語られることが多いが、障害や弱さは個性だ、ネガティブに捉える必要はなく、強みとして捉える方が得である。

人生100年、この長い人生を楽しく健やかに過ごせる精神力を鍛えることに努力しようと思う

精進あるのみ

虚空坊主

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