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社会不適合者は、社会に不要なのか

こんにちは、孤高です。
自分で言うのもどうかと思うのですが、私は所謂「社会不適合」です。
日本という社会の枠から、はみ出してしまっている人間。

この社会の枠からはみ出ていると、排他的に扱われます。
学校や会社、ありとあらゆるコミュニティから外されます。

一方、文部科学省は、共生社会の形成に向けて、インクルーシブ教育システムなるものを、年10〜15億円の予算をつけて導入しています。

これは、2006年12月の国連総会で採択された「障害者の権利に関する条約」示された考え方で、これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会の実現を目指しています。

私は、この文部科学省が掲げている「共生社会の形成に向けて」を全文読みました。「合理的配慮」によって、一人ひとりのニーズに合った環境や設備が整備されることは、必要なことだと思います。

以下で定めている、交流及び共同学習の推進に関しては、現状を考えればこそ、実現は難しいと思いました。

特別支援学校と幼・小・中・高等学校等との間、また、特別支援学級と通常の学級との間でそれぞれ行われる交流及び共同学習は、特別支援学校や特別支援学級に在籍する障害のある児童生徒等にとっても、障害のない児童生徒等にとっても、共生社会の形成に向けて、経験を広め、社会性を養い、豊かな人間性を育てる上で、大きな意義を有するとともに、多様性を尊重する心を育むことができる。

そもそも健常者と障害者という枠組みが存在していて、交流や共同学習によって、多様性を尊重する心が育まれるのだろうか、という疑問があります。

所詮、健常者にとって障害者は障害者でしかない、と思うのです。(30年近くの時間の中で、私が至った結論は「諦め」です。)
私は発達グレーを表に出さずに生きてきましたが、それでも「変人」として、コミュニティから幾度となく排除されてきました。私は、この交流や共同学習の中で、障害を持つ人たちが傷つくことにならないかが、何より心配です。

自分を健常者と認識している人たちは、障害を持つ人や一般からズレた人をどこか蔑んで見ている。そして、平均以上・以下を自分たちのコミュニティから排除する。「こいつは(自分たちより)出来るからおかしい。」「こいつは(自分たちより)出来ないからおかしい。」という人たちが、数度の交流や共同学習で、多様性を尊重する心を身に付けられるのでしょうか。

私は交流や共同学習よりも、もっと先に必要なことがあると思います。
それは、健常者と認識されている人たちが、精神障害や発達障害、身体的な障害も含めて、障害に対する知識を得て、理解を深めること。

いまだに、うつ病が精神の強さ・弱さなんて言っているのは、先進国では日本くらいではないでしょうか。他の先進国では科学できていますし、それを国民がある程度、理解しています。

人の道徳に委ねるのではなく、正しい知識を身に付けさせ、自分とは異なる人を理解する視点に習得することが大事だと私は考えます。

他者の意見を受け入れることと、同意することは異なる

多様性とは、他者を理解し、受け入れようとする心持ちを一人ひとりが持ち合わせるということなのではないでしょうか。しかし、間違えていけないのは、許容することと、同意することは異なります。よく、これを間違えて認識している人がいます。

「○○は〜だよね」と言ったことに対して、
「あぁ、そういう考え方もあるよね!」と他者の考えを許容することと、「そうだよね、私もそう思う!」と同意することは、異なります。

私たちは、他者を理解する、受け入れると考える時に、後者を考えがちですが、別に同意する必要はないのです。自分はあなたとは違う考え方だけれど、そういう考え方・価値観もあるよね、となるだけで良いと思います。

意見に対する批判と人格否定は異なる

大事なのは、相手の意見を尊重することです。
一番良くないのは、自分と違う考え方を持つ人自体を否定すること。

よくある話ですが、自分と異なる意見を持つ人に対して「お前、馬鹿じゃないの?」「(そういう考えを持っている)お前、おかしいよ。」ということがあります。

それは、意見に対する批判ではなく、相手の人格否定です。
批判と否定の違いは、以下です。

ひ‐はん【批判】
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
ひ‐てい【否定】
1 そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。「うわさを否定する」「暴力を否定する」⇔肯定。
2 論理学で、ある命題の主語と述語の関係が成立しないこと。また、その関係を承認しないこと。⇔肯定。
3 ヘーゲル弁証法で、発展の契機の一。→否定の否定
4 文法で、打ち消しの語法のこと。
5 論理演算の一。入力と出力を逆にする演算のこと。入力が「真」または「1」ならば出力は「偽」または「0」となり、入力が「偽」または「0」ならば、出力は「真」または「1」となる。NOT (ノット) 。

批判であるならば、客観性を以って、分析・検討した結果を述べるべきです。主観に任せた拒絶は、否定にすぎません。しかしながら、仕事上のディスカッションなどにおいても、批判ではなく否定がみられることがあります。

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日本という社会が多様性を育むために

私なりに「社会不適合者は、社会に不要なのか」という問いに答えを出すなら、答えはNOだと考えています。それは、自身が社会不適合 = 社会というコミュニティに適合出来ない からではありません。

世界は、国境を越えてグローバルな付き合いが当たり前となっています。
こういった潮流の中で、日本が出遅れているのは、明らかにこのグローバルな動きができる人が少ないからです。私は言語の壁だけではないと考えています。

日本は、多様性が著しく低い。「普通」「当たり前」という枠組みを作って、自他をそこに当てはめて物事を考える傾向にあります。これから、私たちが国際世界と共存していくには、多様性が必要不可欠です。「あの国の人たちは、普通じゃない。」「あの国の人たちは、私と違って、おかしい。」などと言っていては、遅れを取るばかり。

同じ国民でも、違いとは誰しも持っているもの。まずは、お互いの違いを認め合い、尊重し合う気持ちを持つことが、多様性に近く、第一歩なのではないでしょうか。

私は「社会不適合」という言葉が、日本の今の状況を全て言い表していると思うのです。私たちと同じでない人 = 社会不適合 というレッテルをつけてまわっている。そういった社会のメジャーが変わらないと、多様性は育まれないと思います。

だからこそ、自分と異なる意見や価値観を持っている人を「社会不適合者」や「変わり者 / 変人」とレッテルを貼ることで処理するのではなく、自分の中に許容していくことが、多様な社会に近く一歩なのではないでしょうか。

自分と異なるものがあっても否定するのではなく、許容する。
必ずしも同意しなくて良いから、相手を尊重する。
これから、国境を越えて活躍する人材には必要な考え方だと私は考えます。

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