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トラウマ治療の壁 その2 (沖縄 臨床心理士 EMDR)
こんにちは。うるま心理相談室のとねがわです。
前回は、専門家サイドからみた構造的な壁について書きました。
今回は、もう少し違う角度から書いてみます。
「気づいてもらえなさ」を今回のキーワードに書いてみたいと思います。
トラウマにまつわる「気づいてもらえなさ」は、いろんな場面で遭遇します。
断片的になりますが、シチュエーション別で書いてみます。
前提として、
「代表的なトラウマ反応」
をみたときの周囲に起こりうる反応、ということでお読みください。
1、根性論・精神論的な「気づいてもらえなさ」
これは大なり小なり、多くの人が体験するものだと思います。
たとえばトラウマ反応による、
・原因不明の体調不良(頭痛や腹痛)
・低覚醒で身体が思うように動かないとき
・人と関わることがしんどい
といった状態像があるとします。
それで「どうしても職場や学校に行けない」とあなたが訴えたとき、
周囲からはこんな言葉かけが考えられます。
「それはあなたの努力が足りないんじゃない?」
「みんなもできているのだから、あなたも頑張ればできる」
「もっとポジティブに考えようよ」
「甘えてるんじゃない?」
と、いった根性論・精神論的なベクトルでの助言です。
こうした助言自体は、ありふれたもので
この言葉でがんばれる人もいるとは思うのでそれはそれで良いのですが、
ここにトラウマ反応が混じっている場合、少しの配慮が必要かもしれません。
トラウマについて知らない人にとっては、
一応良かれと思って言われている言葉だとは思います。
根性論・精神論的な言葉の背景となる部分を言語化してみるとするなら、
・自分の行動は自分の責任で選択するもの。
・自分でよくなるための行動を選べるはずなのに、
それを選択しないのは、その人の問題なのでは?
(=甘えや努力不足なのでは?)
といった無意識の前提があるかもしれません。
ところが、トラウマインフォームドのメガネをかけてみると、
ご本人たちに起きている「トラウマ反応」とは、
ある種「生物的な防衛本能」で自動的に出ているものです。
なので
・落ち込まないようにする
・身体に反応が出ないようにする
・フラッシュバックしないようにする
などのように、
自分で反応を選ぶことは残念ながらできません。
それどころか正常な反応ですらあります。
なのでご本人としては、頑張れと言われてしまうと
「そうなのかな。やっぱりがんばれてない自分が悪いのかな…」
と自責の念が強化され負のスパイラルを強めたり、
「どうせしんどさを話してもわかってもらえないのだから、
もう人を信じて話すのはやめよう」
と考え、
人に相談したり、つながること自体が遠のいていく、
というリスクがあります。
トラウマには、えてしてこの
「どうせ〜しても無駄」という無力感がセットになりやすいのです。
これは避けたいところです。
「無力感」は、
トラウマケアの壁を構成する要素のひとつなのかもしれません。
代わりの声かけはなんだろう?
周囲にできる代替案としては、
しんどそうな様子を見かけたら
「どうしたの?」
「どんな感じのしんどさなの?」
「何か助けになれることはある?」
と、気持ちに寄り添う言葉かけが大切です。
これがあるだけでも
ご本人たちとしては、救われるところがあります。
これだけが正解、というわけではないと思いますが、
気持ちに余裕のある方は、そうした声かけの工夫について
考えてみても良いかもしれません。
※この点について深めた記事として、
「トラウマインフォームドケアについて」
があるので、併せて参照いただけると理解が深まると思います。
2、家族との関係性における「気づいてもらえなさ」
トラウマを抱えている、という人の場合、
家族・親子関係でうまくいっていないというケースも一定数あります。
世間一般では、「毒親」「親ガチャ」などのように、
親御さんにとっては少々手厳しい表現が一般化しているのは、
「親子双方にとって」コミュニケーションの面で
困っておられる方々がいるという状況の一端を示しているのかもしれません。
子どもの視点から見たとき、
成人以降、もし親との関係性が芳しくないものであった場合、
「親との距離感をどうやって生きていくか?」
は、非常に切迫したテーマになる印象があります。
「家族はわかり合えるもの」という言説は広く信じられていますが
そうはうまくいかないケースもこの世には少なからず存在します。
もちろんコミュニケーションが
持ち直されるに越したことはないのかもしれません。
(そのための相談も沢山経験しました。)
しかし、結果はどうなるであれ、
その「家族はわかり合える」という社会通念自体が
プレッシャーとなって、
それに応えられない自分たちへの
負い目になっていることもときにあります。
こうした感覚は、それを経験したことのない人には
いまいちピンとこないかもしれません。
「他方を立てれば、もう片方は立たず」の
難しいバランスがそこにはあります。
したがって周囲からよかれと思っての
「家族なんだから仲良くしなよ」
「親を大事にしないなんて、信じられない」
といった一見「常識的で」「正しい」言葉が、
意図しないところで
ご本人のメンタルを追い込んでしまうときさえあり、
「この状況を人に話しても、またきっとそう言われるのだろうな」
と、ここでもまた無力感が現れて、
わかってもらえなさ、気づいてもらえなさが
一層その人の援助を求める気持ちにブレーキをかけて
いってしまうときがある事を、
頭の片隅でいいので、覚えておいていただければと思うのです。
微妙で繊細で難しい問題であるだけに、
「なぜご本人は一般社会的な振る舞いから距離をとっているのだろう?」
という点について、周囲の方々も
「トラウマケア」
という視点から一考されてみることを提案したいのです。
ココロンでは、トラウマインフォームドケアに立って
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最後までお読みくださり、ありがとうございました。