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似てるけど違う

心理学的に最近考えていることを書く。



Outline


以下では、まず素人と匠がある部分共通していること、しかし、本質的に異なることに注目する。
その上でその2つの内面の違いが生まれるメカニズムに目を向け、ひとりの人物の中で繰り広げられるペルソナ間のドラマを描き出す。

最後に、このメカニズムを知った自分が、人間の成長過程をどう捉え、そして今どういうステータスにいるのかを確認してみたいと思う。



似てるけど違う


ある事柄に対して、本当になにも知らないので黙っている人(Aさん)と、すでに答えが見えているのだがやんや言っても仕方がないと心得ていて黙っている人(Bさん)。この二人は外見としての行為は全く一緒かもしれないが、内面の心理状態は全く違う。素人と匠の違いである。

「見た目がいっしょだ」ということだけを頼りにして、安易にこのふたりの行為を混同してはならない。

傍から見ている第三者も混同を避けるように注意しなければいけないし、当人たちも自己評価の面で注意するべきだ。

例えば、素人がたまたま冷静に行動できたことを過大評価して、「私は匠の域に達した」と思い込むのは間違っているし、逆にまた、匠が手数をどんどん減らしていったらやることがなくなってしまった状況を勘違いして、「私がやってきたことは無駄だったのだ」と思い込むのも間違っている。


関連してもうひとつ。


葛藤、ジレンマ、ダブルバインド


人間には潜在的に成長欲求がある。上層へ行きたいという大雑把なディレクションに促されて行動している。

ところが、成長してレベルアップするということには本質的に「死」が伴う。現段階のレベルの自分(A)がうまいこと死んでくれて、上のレベルの自分(B)に席を譲ってくれないと、成長過程というのはうまくいかないのだ。

死にゆく運命にある自分(A)からすると、「死」は単純に怖い。避けたいという衝動に突き動かされる。

ところが成長したい自分(B)からすると過去の自分(A)にはさっさと死んでもらいたい。

このような葛藤(ジレンマ、ダブルバインド)が成長というプロセスの中では必ず起こる。どんなレベルにあっても、それぞれの形で現れる。人の成長は多層構造だから、この葛藤は(感覚的には永遠と続くかのように)繰り返される。


さて、冒頭で出した例(素人と匠の関係)にこの葛藤の仕組みをつなげてみよう。


複数のペルソナ


素人Aさんは匠Bさんにあこがれる。これは人間の心理としてとても自然なことである。AさんはBさんのようになりたいと願い、勉強/鍛錬/修行などを始める(=成長欲求に突き動かされる)。

勉強/鍛錬/修行などは、たいてい最初、意味不明である。それがなんなのか、なんの役に立つのかわからないのが普通だ(「ワックスかける!ワックスとる!!」みたいなものだ)。わけがわからないことをわけもわからず必死でやることを強いられる。

このとき修行者Aさんの心理状態ではある意味で「分離」が起こっている。完全に素人丸出しだった自分(Pre A)と、素人を脱しつつある修行中の自分(Post A)がひとりの人物の内面に同時に存在するようになったのだ。

そして、それらふたつのペルソナを抱えているAさん本体(Base A)がいる。そうでなければ複数のペルソナは分裂状態のまま放置プレイになり、統合失調症のような症状を醸してしまう。


ペルソナ同士の離婚と結婚


Aさんの場合、日常生活では慣れ親しんでいるPre Aと同一化していることが多いだろう。

しかし一度修行が始まると、Post Aの影響力が増す。修行が苦痛なら苦痛なほど、Post Aの勢いが必要だ。Base Aは(成長欲求の後押しもあって)なんとかしてPost Aのペルソナに同一化したい(=Pre Aから同一化したい)と思う。いや、「思う」レベルではない。「衝動に駆られる」と言ったほうが適切だ。匠Bさんの領域に達したいという欲求を満たすためにはPost Aへの乗り換えがどうしても必要なのだ。そういうわけで、Base AはPre Aを捨てて、Post Aとの結婚を切望する。

ところがそうは問屋が卸さない。

Pre Aからすると、Base Aから捨てられるという危機を迎えることになるのだから。それはPre Aが排他専一的にAさん本体(Base A)を占領してこれたこれまでの状態の「死」を意味する。Base Aを排他専一的に占領している状態は、Pre Aにとってパラダイスそのものだ。だから必死で現状にしがみつくのである。絶対に席を譲るまいとしてあれこれと手を尽くし、修行の邪魔(=Post Aへの抑圧)を繰り返してくる。Post Aはそれに絶えず対抗しなければならない。はっきり言って、戦争である。なにかを習得する過程というのは、自分の中のペルソナ同士が繰り広げる戦闘状態なのだ。

この戦い、つまり、Base Aと同一化するために席を奪おうとする新勢力Post Aと、その席を死守しようとするPre Aとの戦いが、ひとりの人物(Aさん)の中で勃発する。その戦闘(=勉強/鍛錬/修行など)の結果、Post側が勝利すればその人物は成長を達成できるだろうし、できなければ敗北する、という構図だ。


ハウツーが無尽蔵にある理由


ここまで述べたような葛藤のメカニズムだけ知ってもなにも救われないと思う。葛藤の渦中にいる人が求めるのは「では、どうすればよいのか?」という救いの手段である。

この要求をうまく利用しているのがハウツーの提供者たちである。別にそれ自体は悪いことではないと思う。同じプロセス(道)を歩む者同士が体験や知識を共有するのはとても有意義なことだ。

だから、「人生哲学」など、抽象度の高い概念領域において、ハウツーが無尽蔵に湧き出てくることはある意味自然なことなのだ。


私のスタイル


私が頻繁に目を向け、他者に対してもよく話のネタにするのは、「分割/分離/分解系」のハウツーが多い。どうしてもそうになる。システムエンジニアの職業病みたいなものだ。なんでも一旦バラバラにしてから考える。余計なものを捨てて答えを出す。

ちょっとずつやってちょっとずつ進む。そういうハウツーが好きだ。アジャイルなんてまさにその典型だ。

素人から匠へ一気に大きなジャンプを促すようなことを私はしない。自分に対しても他人に対してもしない。むしろそのジャンプ性に気付いたら意図的に阻止することさえある。それが私のスタイルだ。


ハウツーに飽きている


今日の締めである。

最近自分なりに試行錯誤していて感じるのが「ハウツーがむしろ邪魔だ」ということだ。

もっと言ってしまうと「How」が要らない、とさえ思うことがある。

「どうすれば」「どうやって」という、なんというか「ソリューション意識」みたいなものにどっぷり浸かって長いこと仕事をしてきたせいかもしれないが、そういうHowを突き詰めるやり方に若干限界を感じている。いや、もっと率直に言おう ーー 飽きている。

Howを突き詰める仕事の仕方というのは、つまり、Howの創出に多大なリソースをつぎ込むやり方と言える。それはそのままサンクコストになるのだが、誰しも労力をつぎ込んで仕上げたものを簡単に捨てたり置き換えたりすることはできない。感情が咎めるのである。

だから最近は、Howを考える行為をほどほどにするようにしている/したいと常々思っている。なるべく身軽に考えたいのだ。

正しいやり方は確かに少数に絞られるかもしれない。しかし、正しくないやり方も含めれば、やり方は無限と言っていいほどあるのだ。そういう中で「正しいやり方」にばかりこだわっていたら、結構なにもできない。これは実体験からで、理屈ではないところがある。

このテーマについてはまた後日書こう。


参考図書:



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