グルジェフの自己想起
日記を書いているとき、書こうとしているとき、「なにを書こうかな」と考えてそれについて文章化していく、まぁ、これが普通だと思うし、僕も殆どの場合はそういう流れで日記 = note を書いています。
書き手である自分から対象のテーマや出来事に向かう視線の矢印を文章化している、とも言いかえられると思います。
書いていることが自分のことであってもそれは対象に向かう矢印です。
その「自分のこと」とは、現在進行系でここに存在する自分自身ではなく、文章にするための切り取られた記憶の断片ですから。
さて、この自分から対象に向かうのとは反対の矢印が存在することを意識することは日常的に殆どないのではないでしょうか。
つまり、日記を書いている自分に向かう矢印です。記憶の断片ではなく、今ここにいて、文章を書いている現存在の自分に向かう矢印のことです。
この自分に向かう矢印を意識するのって、結構、難しいですよ。試しにやってみてください。
例えば、あなたがこの文章を読んでいるとして(読んでますよね?)、あなたからこの文章に向かって矢印が向いているを意識できますでしょうか?
それが認識できたら、それと同時に文章からあなたにも矢印が向かっているのを意識できましょうでしょうか?
太文字にした部分が肝です。双方向の矢印が存在すること、それぞれの方向への注意が平等にあること、これを意識できるか、ここがポイントです。
いや~、これが難しいんですよ。
自分から文章、文章から自分、この2つ(どちらも単方向の矢印)を交互に意識することは案外できます。
どちらかに意識を留めて維持することも少しの間ならできます。
しかし、双方向の矢印が存在するという感覚、意識、理解を得ること、また、それを得たとして、そこに留まること、これは本当に難しい。
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個人的実践
視覚や言葉(文章)では僕の場合難しさが増すので、聴覚で今試してみています。
音楽をシャッフルで再生しているのですが、今たまたまかかっている曲に対して、自分から音楽に向かう矢印、これは言い換えれば「聴く」矢印ですね、それと、音楽が僕を「聴く」矢印(もうこうなると日本語が破綻してますが…)、この双方向の矢印の存在を認識することに挑戦しています。
(実践中…)
しばらくやってみて気付いたことは、「自分から音楽に向かう矢印」という表現をする際の「自分」とは、音楽に耳を傾けている肉体、もしくは人体の聴覚のことなんだなと言うことです。
同様に音楽の側から向かっていく矢印の先にある「自分」もそうです。それは「僕」というよりは聴覚ですね。
音と聴覚はそもそも同じもので、その双方向の流れがここにあります。
じゃあ、「自分」とはなんなのか?
わからんです(笑)。
ひとつ気付いたのは、沈黙、つまり無音の状態が常にあって、そこを認識の前提というか背景にしないと双方向の矢印は見えそうにない、ということです。
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このへんの話を今日しているのは、グルジェフの「自己想起」という考え方を本で読んだからです。
興味のある方に参考になればと思うので、参考文献を最後に載せておきます。
今日ここに書いた程度の内容はよく言って瞑想的なエクササイズの域だと思うんですが、とりあえず少しやってみて言えるのはめちゃめちゃ頭がスッキリするということです。(すみません、なんか安っぽくて…)
音楽を聴く耳も新鮮な感じがしますね。
とにかく感覚の中枢がリセットされて、余計なものが落ちた感じがします。
面白いなぁ。
SN
参考文献
翻訳されている郷 尚文氏の解説によると、ウスペンスキーの「自己想起」に対する認識や理解は、予断であり、自己欺瞞的で本質的に間違っているようです。
しかし、だからこそ、価値があると言えると思います。
ウスペンスキーが間違ってくれたから、その間違いを正そうとグルジェフが忠告的・説明的な言葉を発し、それが現代に伝わる過程でやっぱりみんなそれぞれなんかズレた解釈をし、郷氏のような方が注釈や解説を加え…と歴史が作られてるわけですから。
郷氏自身が「自己想起」について解説している内容はこちらの書籍を参考にしました。
で、やっぱりグルジェフ本人の文献にあたる必要があると思います。
このGWはベルゼバブをもう一回読もうかな。
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