![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/151713155/rectangle_large_type_2_4e5048ec7a0a98b7d53e0fd4ae5939d3.jpg?width=1200)
話す(放す/離す)こと ~グリーフ(悲嘆)・喪について考える~
今日は少し「話す」ことについてのお話をしようと思います。
大切な人との別れというのはとてもこころが痛く、悲しい出来事です。
歌を思い出すとそれがよくわかると思います。別れを巡った歌というのは、日本の音楽を振り返ってもたくさんあげられます。
日本人は別れを歌で表現するというのはとても上手なのではないかと思います。
卒業、さくら、エール、涙、旅、たびだち、キーワードをあげるだけで別れを連想する言葉はたくさんあることがわかります。
音楽に、似た思いを寄せ、そこで涙したり、奮い立たせてもらったりという経験は、みなさんも多かれ少なかれ日常で慣れ親しんでいることではないでしょうか。
「まさにその時の気持ち」を重ね、「浸る」ために音楽を聴くというのはよくあります。日本の音楽は心情の表現が非常に長けているのではないかと思います。
ただ、いっぽうで悲しみの気持ちを言葉で表現するというのは、日常でどれくらいされているものでしょうか。
「ちょっと聞いて」「どうしたの?」ということから話す場はあるかもしれません。
ただ、どこかであまりいつまでも話したらいけない、相手に負担をかけてはいけないとブレーキをかけてしまうこともないでしょうか。
特に死について話すことはどこか避けられている感じがします。
それを、精神分析家で日本文化を研究してきた北山修先生は、日本人には死の話をタブー視する心性があるとして指摘しています。死は、「見にくい」ものであり「触れ難いもの」であるというのです。
古くから風習として日本では死は穢れのひとつとして考えられていました。穢れを忌み嫌い、払い去るというのがお祓いになります。
北山先生は、こうした文化的背景から日本人のこころには醜いものを排除しようとする心性があることを語っています。
これは、確かになるほどなと感じる部分があります。
死というのはどこか触れ難さがないでしょうか。まして、今の医療が進んだ時代には死は身近なものではありません。戦時中や、江戸時代疫病が流行った時代とは違います。七五三というのは、子供が長生きしないのが当たり前の時代、無事に年を超えることができたお祝いで長生きを祈願するためだったというのは聞いたことがあると思います。病院で亡くなることが多い現代は、死はどこか隔離された場所に追いやられ、日常の生活の中で感じるということが少なくなっています。
そうなると、より死に対しての気持ちは、どう扱っていいかわからない感情となりやすいです。
また、日本の歌の中で、さくらから終わりを想像したり、旅立ちという言葉から死を連想するというのも、直接的な表現をさける日本人の心性があらわれているのではないかと思います。
それに対して、仏教、キリスト教は違っています。仏教は死生観があり、生老病死を説いています。また悲嘆を扱ったグリーフケアも背景にはキリスト教の考え方が大きく影響しています。
ただ、特定の宗教に属さない人が比較的多い日本では、死が身近に現れた時、考える受け皿があまり日常に整っていないように思います。
それが死を打ち明けられた時の扱いづらさになっているのではないかとも思うのです。
話すという行為は「放す/離す」ということでもあります。
辛く、苦しい気持ちを「持つ」というのはなかなか難しいです。
話して楽になりたいのですが、放すことは相手に重いと感じさせないだろうかという不安が湧いて来たり、話の内容で、相手を苦しめてしまうのではないだろうかというかと思うことがあります。また話して拒絶されるのではないかという不安が湧いたりもします。
相手の反応をみて、早々に切り上げたり「大したことないよ」と振る舞ってしまうのは、重い話をあまり重く見せないようにしたり、負担をかけないようにする心が働きからだったりもします。けれど、こうして蓋をされた気持ちは「話せない」「放せない/離せない」ものとなってしまうのです。
こうして、長く続く悲嘆を複雑性悲嘆ともいいます。
なので、セラピーの中では、こうした体験を置く場として過ごしてみることから始めます。ここだけの話として安全に守られた環境でセラピストに「話して(放して/離して)」いきます。またセラピストは話の内容に合わせて質問したり言葉を返したりします。こうした対話を重ねる中で、失くしたもの、またそれまでにあったもの、自分自身のことであったりその人とどう関わってきたのか、どんな位置づけにあったのか、そこにどのような思いがあったのか、ともに眺めていきます。こうして、取り出したものに対しての想いに、行きつ戻りつしながら、持てるものを探していくという作業が、グリーフケアであったり喪の作業であったりします。
セラピーで話すというのが、ただ吐き出す(放す)という発散だけを目的にしているわけではないというのがなんとなくイメージしていただけたでしょうか。
なのでその作業は決して平坦でないし少しきつくも感じる作業になるかもしれません。ただ、それを一人で行うのではなく、セラピストは伴走者となって歩みを共にしていきます。
もうちょっと助言してよ、楽にしてよと不満に思うときもあるかと思います。それでいいのです。セラピストは万能的な存在ではないです。そういう愚痴、不満も言える環境であったり言いながらも、来るということ自体が意味があったりもします。
いろいろな感情を味わう中で、あなたの中で手離していいもの、逆に大事に取っておきたいもの、そういうものが見つかり、日常過ごしていけるお手伝いができたらと思っています。
こころの木カウンセリングルーム柏
kokoronoki-t.com