こころを病(やま)すということ
こころを病すということは、自分に起きた出来事に悩み苦しみ、強いては心に負担をかけ病してしまうと考えがちでありますが。
ただ、その考えは心に複雑な方程式を築き、知らず知らずに答えのない『感情』を造り続けます。
感情は感情を更に造り”幸せになりたい”という気持ちさえも見失わせます。
それは、薔薇の幾重にも重なる花びら(かんじょう)を透しても、雄しべ雌しべを見えなくするように気持ちが見えないのです。
人は出来事が起きるとその出来事を考える癖があります。心を然程(さほど)知らないからそうするしか出来ないのですが、それでも人は元々答えを知っているのです。
そして、その答えに気づけば出来事をひとつ一つ解決できるが、答がみつかれば出来事は大したことでないと気づくのです。
人は”幸せになりたい”と常々思ってます。
それが答えにつながるヒントであり、自身のこころが幸せであれば十分なのではないでしょうか。
人は出来事が起きれば幸せかどうかを気持ちが判断します。気持ちは瞬時に喜怒哀楽という感情を湧かしそれを自分に知らせているのです。
その感情に気づければやれることは2つです。
人のこころは”幸せになりたい”と思うなら、幸せなことは『気持ちのまま』進めば良く、それが幸せでなければ『立ち止まれる』だけです。
人は出来事を”考える”という感情に囚われがちです。立ち止まる勇気が無いだけです。立ち止まることでそれが心の余裕(ひとこきゅう)を創るのです。
その余裕をどう使うかは自分しだいですが、使いかたは一つなはず。幸せになるために使いたいのではないかな。
立ち止まるは”今より幸せ”とも云えます。それは、幸せな人生と云う道の選んだはじまりです。その今より幸せな人生を選ぶ術を持ち、立ち止まるのに然程勇気が必要ないとも当たり前に慣れるのです。
人の慣れは悪く思われがちですが、自分がためにする癖は、幸せになるための”慣れ”とこころ優しいのです。
人は誰しも”幸せになりたい”と思います。
そうなるために次の言葉を贈ります。
『いつも気持ちのままに』
幸せへの一歩です。
(心のカタチより)