三島由紀夫とスポーツ
三島由紀夫とスポーツの関わりで想起されるのは、何といってもボディービルだろう。
三島がボディービルを始めたのは三十歳の頃らしい。それまでの三島は自身の貧弱な体を恥じ、周囲も話題がそれに触れることを避けていたという。三十歳という年齢は筋肉を鍛えて大きくするにはややピークを過ぎているが、三島の情熱と努力は大変なものだったようだ。友人でもあった評論家の奥野健男は書いている。
筋トレに号令とはなんとも前時代的だが、三島の頭の中には軍事教練のイメージでもあったのだろうか。しかもその号令を、トレーナーでもないお手伝いさんにさせている。世界のミシマがエプロン姿のお手伝いさんにしごかれ、汗まみれになって喘いでいるさまは面妖だ。そして、来客をほったらかしてまでルーティンを遵守する生真面目さ。
そうやって三島は立派な「体格」を手に入れたのだろうか。
* * *
話は少しそれるが、一九七二年のミュンヘンオリンピックの男子バレーボールで、日本は松平監督のもと金メダルに輝いた。
その準決勝で、日本はブルガリアに二セットを先取され、あとがなくなった。そこで投入されたのが背番号1のベテランの南将之で、日本はそこから三セットを連取して逆転勝ちした。
金メダルを獲得するまでの独創的な練習や選手個々の逸話は、アニメを交えて『ミュンヘンへの道』というタイトルでドラマ化され、オリンピックと並行してテレビ放映された。南のエピソードも登場している。
のちに三島の写真を見た時、その南に似ていると思った。そして南は日本選手の中でも大柄だったので、三島も大男なのだと思い込んだようだ。鍛え上げられた三島の上半身の写真からも、堂々たる「体格」を想像していた。
しかし、実際の三島の身長は、一六〇センチあるかないかの短躯だったらしい。写真というのは概して実物より大きく見えるものだが、改めて三島の全身の写真を眺めてみても、身長の低さを窺い知ることはできない。一人で写っている写真が多いせいもある。複数人との写真でも、人との身長差を際立たせるようなものは見当たらない。
それよりも、何か違和感のような、不自然なものを感じたのは、三島のアンバランスな体形だった。
アングルによって頭が少し大きいような気はしていたが、アングルのせいではなかった。肩幅が広くないので、筋肉はついているが逆三角形の上半身ではない。
野坂昭如は『赫奕たる逆光』の中で、そんな三島の体形を、羨望と負け惜しみと揶揄の入り混じった口調で「ドラム缶」と評している。
浅田次郎は作家デビュー前、後楽園ジムの窓ガラス越しに、バーベルを上げる三島と目が合ったという。その時の三島の印象は、背が小さく、顔が異様に大きいというものだったらしい。
猪瀬直樹によると、三島があの市ヶ谷の陸上自衛隊のバルコニーに立ったのは、面会場所が変更になったことによる偶然なのだそうだ。当初の予定では、バルコニーなどない、殺風景な外観の建物だったらしい。
だが、自衛隊の金色の桜の紋章を背にした、下から見上げるバルコニーは、これ以上ない舞台設定だった。奈良の大仏が仰ぎ見た時にちょうどバランスよく見えるように、バルコニーに立つ三島の体形は、楯の会の制服の肩幅を強調したデザインの効果もあり、頭の大きさが際立たず、上半身が堂々と見える視覚効果を生んだ。長くはない脚も、足元が死角になって隠れているため、そうと知れることはなかったろう。
世間の興味本位で冷ややかな視線は気にも留めず、プロテインの飲み過ぎで消化不良を起こしながら、涙ぐましいほどの努力を重ねて肉体改造に励んだ結果、あの隆々とした筋肉をつけることはできた。だが、体全体の骨格を変えることはできなかったのだ。
変えられなかったのは骨格だけではない。奥野はこうも書いている。
三島はボディービルのほかにも、ボクシングや剣道・居合・空手と、いろいろなスポーツをやっている。年譜をたどると、作家のそれとは思えないような経歴が目を引く。それらのスポーツに励む写真にも、頻繁に露出している。
最初に見た写真の中で、強い印象を受けたものがある。剣道の稽古のある場面を写した一枚だ。
稽古を終えて床に端座し、面を取った三島が、隣の人物に笑いかけている。その笑顔が実に爽やかだった。それはスポーツマンだけが垣間見せる相好だった。思う存分体を動かして汗を流した満足感と余韻が、破顔した表情や、面を持つ手指や、道着を着た体全体から迸っていた。
三島由紀夫は頭が良くて、そのうえ運動神経も抜群だったんだなと、讃嘆する思いだった。
しかし三島は、われわれがイメージするようなスポーツマンでないことが、少しずつわかってきた。
たとえば、若い頃から愛していたというボクシング。スパーリングのフットワークがひどかったらしいが、運動神経の良し悪しはフットワークに現れる。
友人の石原慎太郎がそれを八ミリビデオに撮った。石原の『太陽の季節』はボクシング選手が主人公だ。そして撮影したフィルムを、マンボだかサンバだかの音楽を流しながら、三島を交え大笑いして観賞したという。
だが、三島自身は少なからず傷ついたとみえて、ボクシングはそれきりやらなかったようだ。
空手の稽古の写真を見たことがある。口を真一文字に結んで上段突きの稽古をしているが、体がコチコチになっているのがよくわかる。いわゆる肩に力が入っている状態だ。相手のある実戦形式の組手は言うに及ばず、一人でやる型の演武でも、ろくに体が動かなかったのではないだろうか。
そして、ボディービルとともに三島が最も熱心に取り組んだ剣道。
足さばきに問題があることを指摘されていたようで、三島はそのことをしかつめらしい言い回しで分析しているが、言ってしまえばバタバタした足だったのだろう。段位は五段とされているが、本当の実力となると疑問視する声が多い。
スポーツではないが、多くの人が行き交う銀座の裏通りを闊歩している時、歩道と車道を隔てる鎖を、颯爽と飛び越えようとして足を引っかけ、派手に転倒している。
文章はあんなにカッコいいのに。
ボクシングも空手も剣道も、球技と同じように、体を自分の思い通りに動かす運動神経がものを言う。筋肉がいくら付いていたところで、運動神経で劣っていれば勝負には負ける。そして運動神経は、大人になって努力しても、どうこうなるものではない。
ボディービルは運動神経とは無関係と言ってもよく、また筋肉は裏切らないと言われるように、努力すれば誰でも一定の成果を上げることができる。奥野もそういうことはよく知っていたようだ。
そんな三島の運動神経のなさを書いた奥野に「三島はほんとうに怒り」、「君と決闘してもよいとまで言った」。そして奥野はホテルのプールに呼び出され、「ぼくの筋骨のたくましさを見よ」と「筋肉を見せつけられ、思い切り軽蔑された」という。いくらか脚色されているとしても、なんとも大人げないふるまいだ。
だが、「決闘」の場をプールに指定したものの、三島はカナヅチだったらしい。
* * *
祖母に溺愛されて女の子のように育てられ、学習院では「アオジロ」と馬鹿にされいじめられた柔弱さひ弱さは、壮年に達した三島が好んで口にし、志向した「男らしさ」と結びつかない。
男らしくなりたいという思いから体を鍛える青年は珍しくないが、どんなに鍛錬に励んでも、ついた筋肉は生来の三島から懸け離れた作り物、張りぼてでしかなかった。身長は伸びなかったし、体形は洗練されなかったし、運動神経も改善されなかった。そして、人の内面の本質的な部分は、筋肉がついたくらいで劇的に変わるとは思えない。
* * *
奥野は、三島が球技について書いた文章はほとんど皆無、と書いているが、三島は昭和三十九年の東京オリンピックを取材し、金メダルを獲得した女子バレーの観戦記を書いている。三島の名誉のためにも、以下に抜粋する。
しかしこれは、果たして、スポーツの球技について書かれた文章だろうか。