恐怖の穂高
新年の書店の店頭には、新たな一年を展望する雑誌が並ぶ。
『山と渓谷』一月号では、「深田久弥と『日本百名山』」の特集記事が組まれていた。二〇二一年は深田久弥没後五十年になるそうだ。付録として、新たな「山の便利帳」と、「日本百名山ルートマップ」が付いている。
「山の便利帳」は、全国の山小屋情報や登山行程表など、登山に関する情報がぎっしり詰まった小冊子で、この付録がほしいがために、毎年『山と渓谷』の新年号を買い求めている。
昨年はコロナの影響で登山らしい登山ができなかったので、一年前の「山の便利帳」が一度も役立つ機会がないまま、部屋の片隅で埃をかぶっている。
山と渓谷社は『夏山JOY』という夏季限定の雑誌も出している。誌名からも明らかなように、この雑誌は夏山登山をもっぱらレクリエーションとしてみるスタンスをとっていて、娯楽色の強い内容になっている。『山と渓谷』のような専門性はないが、記者が撮影した登山者のスナップ写真など、見ているだけでおもしろくて楽しめる。
ここに掲載された集合写真に、たまたま居合わせて撮られたことがある。三十代半ばに、初めて北アルプスに登った時のことだ。その年の夏、山と渓谷社がちょうど涸沢に取材に来ていた。
涸沢ヒュッテの前でイベントがあり、大学生によるアルプホルンの野外コンサートなどが開かれた。真夏の乾いた日差しの下、翌日登る穂高の岩峰群を眺めながら、期待と高揚感と開放感にひたっていた。その日までは。
山登りを始めてまもない頃で、北アルプスはまだ登ったことがなかったが、どうせ登るなら穂高にしようと思っていた。「穂高」が日本のアルピニズムの象徴として人口に膾炙しているのは、それだけのすばらしさがあるからだろうと思ったからだ。穂高という言葉の字面や響きにも、いかにも登山らしいロマンや憧れのようなものを感じていた。
登山地図を買って調べてみると、穂高という山は、主峰の奥穂高岳を初めとするいくつかの峰の連峰であることがわかった。初心者コースとして、上高地から涸沢に至り、ザイテングラートを登って奥穂高岳まで歩くルートが紹介されていた。
しかし日程からすると、そのコースなら少しばかり余裕がありそうだった。そこで、熟練者向きとなっていた西穂高岳へのルートを除き、「穂高岳」とつく三つの峰すべてのピークに登ろうと思った。涸沢から北穂高岳に登り、穂高岳山荘を経て奥穂高岳、前穂高岳まで歩いて、岳沢から上高地に下る上級者コースだ。
地図の北穂高岳と穂高岳山荘との間のルート上に、危険を示す赤い丸印がいくつかついていたが、体力には自信があったのでどうにかなるだろうと思った。
* * *
初日は涸沢ヒュッテに泊り、二日目に北穂を目指して歩き始めた。その日は北穂のピークに立ったあと、宿泊予定の穂高岳山荘まで歩けばよかったので、時間は十分にありそうだった。だから、涸沢ヒュッテを出発したのは朝の九時過ぎという、登山者にあるまじきひどい遅出だった。小屋の若いスタッフらが掃除を始めていた。
のんびりとしたスタートだったが、いつも地図上のコースタイムより速いペースで歩けたので、焦るようなことはなかった。むしろ、初めての北アルプスという気負いと緊張があったために、強いてペースを抑えながら登った。のぼりはきつかったが、それはどこの山でも味わうきつさだった。難しいと感じる場所もなかった。
標高三,一〇六メートルの北穂の頂からの眺望は、それまでの山登りで経験したことのないものだった。
天候は快晴で無風。透明な大気と横溢する光の中に、圧倒的な迫力で連なる山々がただ静寂のうちにあるのは、どこか不思議な眺めだった。その無音の世界は別の次元の空間のようだった。
槍ヶ岳はすぐにわかった。それほど近くではないはずなのに、指呼の間とも言えるくらいすぐ近くに見えた。槍の穂先からこちらを見ているだろう登山者の姿も想像することができた。
そして、断崖からほとんどせり出して天空に浮かぶ、北穂小屋のテラス。
何百人も収容できる巨大な山「小屋」がある中で、北穂小屋は山小屋らしい小屋だ。規模や設備は、前日泊った涸沢ヒュッテに比べれば見劣りがするが、この贅沢なロケーションと豪華なパノラマは、それを補って余りある。
しかし、眺めを楽しむことができたのはここまでだった。
* * *
北穂から穂高岳山荘へのルートは、岩と恐怖の記憶しかない。眺めを楽しむ余裕は皆無だった。足元にも、指先にも、目の前にも、あるのは岩だけだった。
階段でも足がすくむほどの高所恐怖症なので、足を置く岩を探るために足元を見る以外は、なるべく下を見ないようにしていた。
一度だけ勇を鼓して視線を足元の岩からはずすと、登山靴を載せてある岩のその下がなく、谷底に向かって突兀とした岩の斜面が切れ落ちていた。
岩にへばりつくようにして、手がかりや足がかりを探しながら、少しずつ体を移動させた。
ルートを示す矢印やマルが岩に印されていたが、こんなところをどうやって登るのかと、何度絶望したことだろう。わずか数センチの岩の角に、すべてを預けるような思いだった。そんな手がかりや足がかりはいかにも頼りなげだったが、よけいなことを考えたらその場から動けなくなりそうだった。
岩の面が手前に覆いかぶさるように張り出している、いわゆるオーバーハングが多いことは知っていたが、そのオーバーハングのひとつで岩を掴み損ねた。ザックのウエストベルトを締めていなかったので、腰からだらりと離れたザックの重みで、上体がふわりと谷側に傾きかけた。宙を泳いだ指先が偶然にも岩の角に引っかかった。それがなかったら転落していただろう。
岩場の陰に思いがけず花を見つけた。だがそれは、登山者を癒すような高山植物の花ではなく、死者に手向けられた供養の花だった。そこから転落するか滑落するかして落命した友人の霊を慰めるために、登山仲間が登ってきて供えた花なのだろう。
手を合わせる余裕はなかった。恐怖は募った。
日が翳ることはなかったと思うが、岩場は日陰になったり日向になったりした。日陰に入ると恐怖が増し、日向に出るといくらか和らいだ。恐怖がまったく消えることはなかったが、太陽の光を浴びるといくぶんかほっとした。
ほかの登山者とすれ違ったり、追い越し追い越されることもなかった。
岩場は延々と続いた。いつになったら終わるのかと何度も思った。
地図を取りだして見ることも、見ようと思うこともなかったが、地図を見たところで何もわからなかっただろう。
もうたくさんだと、怨嗟の思いで天を仰ぐように見上げると、岩の上にヘルメットをかぶった男の顔が見えた。安全な場所で小休止でもしていたのだろうか。遠くを眺めて笑みを浮かべている。パーティーの同伴者がいるようだった。ヘルメットが必要なルートだったのかと嘆く一方で、笑うことができるところなのだと思うこともできた。
男の姿と笑顔に救われたような気がしたが、それで恐怖が和らぐことはなかった。なぜなら、すがるような思いで男に声をかけようとしたからだ。助けを求めようとしたのではない。岩場に慣れた人の声を聞いて、恐怖から少しでも逃れたかったのだ。
だが、男の姿はもうそこになかった。
* * *
「死ぬかと思ったよ~」
穂高岳山荘に無事たどり着いた時、同じルートを歩いてきたらしい登山者の一人の男が、部屋の布団の上で駄々をこねるように呻いていた。仲間らしい人たちは笑っていたが、「死ぬかと思った」は私の思いでもあった。
改めて地図を広げてみて、「危険」の意味がわかったような気がした。ルートの西側は滝谷と呼ばれる日本有数の岩場で、崩れやすいことから「岩の墓場」と形容されているそうだ。
体力だけではどうにもならないルートや山があることを思い知らされた。そして、最初はほとんど看過していた涸沢岳が、このルートの難しさの象徴であることも知った。
涸沢カールの底から見上げると、涸沢岳が従える涸沢槍の、鋭く尖った三角形の山容が目を引く。だが、涸沢岳はあまりぱっとしない存在だったのだ。
その日は穂高岳山荘に泊り、翌日は主峰の奥穂高岳に登った。
この日も晴天だった。標高三,一九〇メートルの山頂からの眺めを、いちどきに視界におさめることができないのが歯痒かった。はるか下方には上高地も遠望できた。
だがしかし、足元を見たらもう駄目だった。
『北壁の死闘』という山岳冒険小説がある。第二次大戦中のアイガーを舞台にしたボブ・ラングレーの傑作で、北壁登攀の場面が描かれているのだが、読んでいるだけで足元が寒くなる。
その中に「高度のもたらす爽快感」という表現が出てくる(海津正彦訳)。
高さが恐怖でなく快感をもたらすとは、いったいどんな感性なのだろう。
前日のあの涸沢岳をめぐるルートでは、そんな感覚は微塵も持ち得なかった。奥穂の山頂にしても、足元は岩が積み重なった不安定なガレ場で、一枚が崩れれば雪崩を打って崩落しそうだった。数歩先はおそらく切り立った断崖絶壁なのだ。快感なんて想像もつかない。
奥穂の頂上で身をすくませながらしばらく休み、そろりそろりと立ち上がってまた歩き出した。そして前穂を経て、一気に上高地まで駆け下りた。距離は長かったが、前日のルートのような危険箇所もなく、岳沢からは展望を楽しみながら下ることができた。
* * *
二〇一八年の『山と渓谷』新年号によると、一般登山ルートでは日本最難関の一つと言われる、大キレットのある「槍ヶ岳~北穂高岳」ルートは、近年ルートの整備が進み、以前ほど危険ではなくなったという。
それと比較して、現在では「北穂高岳~奥穂高岳」の方がむしろ危険で難しいそうだ。ネット上でもこちらの方が怖かったという声が多かった。
その後も、性懲りもなくと言うべきか、剱岳のような岩峰にも、三大キレットのうちの不帰ノ嶮や八峰キレットにも登った。幸いに事故に遭うことも、事故の危険を感じることもなかった。恐怖や難易度において、どれもあの「北穂~奥穂」には及ばない。
三大キレットの筆頭の大キレットは、多くの登山者が憧れ、畏怖の対象とし、越えてみたいと思う目標のひとつだろう。私もいつかは挑戦してみたいと思っていた。それに、今ではあの「北穂~奥穂」よりやさしいという。
しかしそうであっても、死ぬような恐怖に直面する山は懲りごりだという思いが強い。今では山は挑むものではなく、楽しむものになった。
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