旅の宿 そして
宿泊した福島の湯野上温泉の民宿は、部屋数も少ない小さな宿だった。
宿にはその日一番に到着したようで、玄関を入るとひっそり静まり返っていた。民宿の受付はロビーとは言わないと思うのだが、そこはロビーとしか呼べないくらい、清潔で明るく、のびやかな空間だった。木の床は鏡のように磨きあげられていた。
「遠いところ、ありがとなし」
と、穏やかな女将さんが会津弁で迎えてくれた。そして二階の部屋まで案内してくれた。
部屋は床の間もある畳の和室だが、廊下や階段は明るい洋風で、それらも木でピカピカだった。手すりや支柱も木製で、木がふんだんに使われているようだった。壁には金縁の額に入った油絵が飾られていた。洗面所やトイレ、風呂は共同だが、従来の民宿のような雑然とした生活感がなく、旅館のような静けさがあった。トイレの人感センサーは初めて見た。
だが、これが今どきの民宿なのだろう。記憶にある民宿は素朴そのもので、宿を営む家族とともに、生活したかのような印象がある。子供が走り回る広い座敷で、宿泊客は家族と同じ食卓を囲み、同じ器に盛られた手作りの惣菜を食べた。
部屋の壁には大きな液晶テレビが設置されていた。
旅先の宿での楽しみのひとつは、その地方のテレビ放送を観ること。とりわけ民放の番組間に流れるコマーシャルで、ローカルCMとかご当地CMと呼ばれるものだ。飲食店や健康ランドや葬祭場など、その地方で営業している店舗や企業の宣伝なのだが、その土地ならではの雰囲気にひたることができる。
夕食までまだ時間があったので、畳に寝そべりながら、そんなテレビを観て過ごすことにした。
しばらくすると、階下から男性の声が聞こえてきた。その話し声が次第に大きくなっていった。内容まではわからないものの、何か苦情かクレームを訴えているようだった。「予約」という言葉が聞き取れた。部屋は全部埋まっているはずだった。
男性の話し声はやむことなく続いた。女将さんが部屋に来て、トラブルがあり夕食が遅くなることを告げた。そして、何度も申し訳なさそうに詫びた。息子の若旦那さんが対応しているようだった。
窓を開けて外を見ると、宿の駐車場にパトカーがとまっていた。
その後も男性の話し声は続いたが、まもなくすると聞こえなくなった。再び駐車場を見ると、パトカーは同じところにとまっていた。人が乗っているようすもない。話し合いの場は、別棟の家族の住まいに移されたのかもしれなかった。
* * *
湯野上温泉に泊ったのは今回が初めてではない。二十代のある夏に、自転車で東北一周をした際に泊ったことがある。大きな東北地図一枚を頼りに、何の計画も立てずに出たツーリングで、宿も行き当たりばったりだった。
青森で折り返した帰途、会津若松を過ぎてから通りがかった町で、地元の人に安い宿を訊ねてみた。そこで教えてくれたのが湯野上温泉だった。初めて耳にする温泉だった。
たまたま目についた民宿を当たると、空いているというので泊めてもらうことにした。宿のすぐ裏手に鉄道が走っていて、部屋の窓から時々電車が見えた。
部屋でくつろいでいると、女将さんが襖の外から、
「ちょっと出かけてきます」
と声をかけてきた。
「はい」
と答えたものの、なんとものんきなと思った。ほかに家族や宿泊客はいないようで、一人の客に留守番をさせることになるわけだが、憤慨するような気分になったのではない。もし客が盗っ人で、金品を持ち逃げでもされたらどうするのかと、心配するような気持ちになったのだ。
そして、ある不安も感じていた。
不安は的中した。家のどこかで電話が鳴り出したのだ。
放っておけばあきらめるだろうと思ったが、電話は鳴りやまなかった。襖を開けると、台所にある電話が鳴っているようだった。早く取らねばと、気持ちは正反対になって焦った。
「大変お待たせしました。民宿〇〇です」
と答えてから、宿の人は外出していると断ることができたかもしれない。だが「民宿〇〇です」とぬけぬけと答えたことで、それが阻まれるように思った。グズグズする間もなく、相手の男性が話し始めた。一つめの機会を逸した。
「宿泊の予約をしたいのですが」
「ありがとうございます。それでは‥‥」
電話のそばにペンとメモ用紙はあった。身分を明かし、宿の人から折り返し電話することを告げようかと思ったが、今さらという思いがまさった。二つめの機会を手放した。
「お日にちはいつがご希望でしょうか」
「何名様でしょう」
「お名前とご住所とお電話番号をお願いします」
男性は淡々とした口調で答えた。こちらから聞かずとも、宿泊日は第二希望まで教えてくれた。それらをメモし、復唱した。いっぱしの宿屋気取りだが、真実はやはり伝えなければならなかった。
「すみません。実は民宿の者ではないので、のちほど宿の人から確認の電話があるかもしれません」
個人情報に厳しい今なら、確実に怒られていただろう。宿からやたらに予約客に電話することもタブーだ。民宿にも迷惑をかけることになる。
だが、電話の男性は穏やかだった。
「わかりました。よろしく」
と言う声を聞いて電話は終わった。
帰ってきた女将さんに電話のことを伝え、部屋で地図を広げていると、女将さんがやってきた。手にした盆に、ビールと枝豆がのっている。
「どうぞ」
と、女将さんは微笑みながらすすめてくれた。
* * *
今回投宿した民宿はあの時とは別の宿だが、また同じ温泉に泊ってみようと思ったのは、湯野上温泉がいい思い出として記憶に残っていたからだ。
だが、予約絡みのトラブルでパトカーを呼ぶほどの事態になっていることを知ると、あの時受けた電話は、予約として成立していたのだろうかと不安になった。
男性から聞きだした必要事項に不備がなかったとしても、女将さんは確認とお礼の電話はしたはずだ。そして、部外者が電話に出た非礼を詫びたはずだ。それに対して、冷静に思えた男性は実は怒り心頭に発していて、予約をキャンセルしたかもしれないのだ。宿の評判も落としたかもしれない。
しかし、女将さんにメモを渡したあと、問題はなかったか、予約になったかを確かめたはずだ。その記憶もかすかにある。なにより、ビールをご馳走してくれたのだから。
それでももしかしたら、と思わずにはいられない。
一時間あまりしてから外を見ると、パトカーの姿は消えていた。
それからしばらくして、女将さんが食事の用意ができたことを伝えに来た。お待たせしてすみませんと、何度も何度も頭を下げた。
料理は若旦那さんを中心に作っているようだった。トラブルで若旦那さんが落ち込んでいないか、時間に遅れて慌てていないかと思ったが、皿に山と盛られたてんぷらを一つひとつ説明する若旦那さんは、少なくとも表面上はそんなものを感じさせなかった。てんぷらもほかの料理も評判通りうまかった。
ツーリングの時に泊った民宿は、民宿街の通りに看板広告が掲げられていた。家が建て込んでいて、それがどこにあるのかはわからなかった。かつての家並の記憶もまったくない。だが、現在も変わらず営業していることを知って、なんとなくほっとした。
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