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遥かなるエルサレム
イスラエルにはヘブライ語でキブツ(קיבוץ)と呼ばれる、ユダヤ人の生活共同体がある。社会科の教科書では「集団農場」や「農業共同体」と訳されていたが、工業や観光業も導入されるようになっている。
キブツには、食堂・保育所・学校・体育館・診療所などがあり、自治体のような機能を備えている。共同生活が営まれ、一日八時間の労働とひきかえに、衣食住のほぼすべてが保障される。日用品も無償で支給される。贅沢をしなければ、生きていくのに不自由することはない。
草創期の共産主義的理念から、以前は私有財産が認められなかったが、小遣い程度の少額が支給され、小規模な売店もあった。
ウィキペディア・ヘブライ語版によると、二〇一八年の時点で、二六五のキブツが存在している。
ボランティアとして滞在したキブツは、イスラエル北部のシャロン平原と呼ばれる海岸平野にあった。広大な畑地と丘陵が広がる中に、樹木が生い茂る小高い丘があり、一九八五年当時、三百人ほどのキブツの人たちが共同生活を営んでいた。
このあたり一帯は、肥沃な土地柄と温暖な地中海性気候により、早くから農業地域として栄えていたという。オレンジを初めとする果樹栽培も盛んで、滞在したキブツにも、オレンジが文字通り捨てるほど溢れていた。
キブツの中心にはよく手入れされた芝生があり、人々が思い思いにくつろいでいた。広いグラウンドで、野球やサッカーに興じる人たちがいた。プールやバーがあり、今でいうクラブ、ディスコもあった。イスラエルの都市や町と同じように、欧米の文化が定着していたと言える。
ヨルダン川西岸地区に近い場所で、一九四九年にキブツができる前は、アラブ人の大きな屋敷があったという。
* * *
キブツで与えられた仕事は、おもに牛舎での搾乳だった。搾乳すなわち乳しぼりといっても、人の手で搾るのではなく、ほとんどの作業が機械化されていた。
ミルキングは一日に三回行われる。
放牧されている牛を搾乳棟に入れ、搾乳室の壁に沿って配列する。そしてミルカーと呼ばれる搾乳器を牛の乳頭に装着すれば、あとは機械が乳を吸い出してくれるのだ。乳はパイプラインを通じてタンクに送られる。搾乳が終わると自動的にミルカーがはずれる。そうやって一つのグループの搾乳が終わると、次のグループに入れ替え、同じ手順で作業を進める。
当時のイスラエルで最先端の設備だったらしく、時々外部から見学者が来ていた。
ミルキングはシフト制で、希望する時間帯を、あらかじめ事務室の表に記入するようになっていた。
一日の最初のミルキングは、夜中の三時に起きなければならなかった。だが、昼前にはすべての仕事が終わり、午後からの時間を自由に使えたので、三日続けてシフトを入れたことがある。その三日目に寝坊をした。
ボランティア小屋のドアを叩く音で飛び起きた。キブツから支給されたレトロな目覚し時計のベルは、三時前にけたたましく鳴っていたが、すぐ眠ってしまったようだった。
キブツニクと呼ばれるキブツメンバーの女性が、ドアを開けて顔をのぞかせた。
「キヨ、ミルキング!」
慌てて牛舎に走り搾乳室に駆け込むと、忙しなく立ち働いていたキブツニクのイケメンが笑った。当時ブラッド・ピットはまだデビューしていなかったが、いま思い返すとブラピに似ている。
ミルキングは二人でやることになっていたが、待っていても日本人アシスタントが来ないので、就寝中のボランティア担当の女性を起こし、部屋を調べさせ、呼びにやらせたのだろう。彼は一時間近くを一人で作業していたのだ。ひたすら謝るしかなかった。
搾乳室の小さな窓が明るみ始め、作業が一息ついたところで、彼は搾ったばかりのミルクをカップに注いだ。端正なその顔には、目の前で飛び散った牛の糞が、乾いてこびり付いていた。私の顔も同じようなありさまだったろう。ゴムの前掛けと長靴も、泥とも糞ともつかぬもので汚れていた。二人とも作業に忙殺され、汚れには無感覚になっていた。
搾りたてのミルクは甘かった。
搾乳室のスピーカーから、ラジオの音楽が流れてきた。日本の『赤とんぼ』のメロディーだ。「夕焼け小焼けの~」で始まるあの童謡だ。早朝に流す曲ではないが、番組は歌詞を知らなかったのだろうか。
「日本の曲だろう?」
ブラピはミルクを飲みながら訊いた。
「そうだよ」
「何という曲?」
赤とんぼをヘブライ語で何と言うかはもちろん、英語の「ドラゴンフライ」も出てこなかった。
「赤とんぼ。A・KA・TO・N・BO‥‥」
「歌ってみろよ」
仕方なしに歌ってみたが、彼は満足したのか失望したのか、小さく頷きながらミルクを飲みほした。
『赤とんぼ』は毎朝のように流れていた。しかし、夕焼けの曲と知らなければ、搾乳室の中を仄赤く染めながら、しらじらと明け始める朝の時間にも、この穏やかな曲は合うような気がした。
* * *
現在のイスラエルと、ヨルダン川西岸およびガザを合わせた地は、古くからカナンともパレスチナとも呼ばれ、アラブ人と少数のユダヤ人などが共存していた。映画『ベン・ハー』で、ユダヤの名家の主人公ジュダに、戦車競走の白馬を提供したのはアラブ人富豪だった。
周辺勢力の支配と抑圧を受け続けたユダヤ人は、ローマ帝国の統治下で独立を試みるが失敗する。
イスラエルの死海西岸の荒野に、マサダという独立した岩山がある。かつてこの頂上台地にユダヤ人の宮殿があり、要塞としての機能を備えていた。ここに立てこもった九六〇名のユダヤ人が、包囲するローマ軍の攻撃を受け、孤立無援のまま自害した。
この悲劇は「マサダ・コンプレックス」として、ユダヤ人の胸に深く刻みつけられることになる。現在、イスラエル軍将校の入隊宣誓式が、ここマサダの頂上で行われる。
その後、ユダヤ人はパレスチナの地から追放され、流浪の民となって世界中をさまようこととなった。
しかしユダヤ人にとっては、パレスチナは旧約聖書に言う「約束の地」で、帰るべき憧憬の地だった。ユダヤ人はここに自分たちの国を作ろうとしてシオニズム運動を展開する。
ヨーロッパでのユダヤ人に対する迫害は、シオニズム運動を加速させた。パレスチナへの入植者は急増し、アラブ人との間に軋轢が生じるようになる。
第二次大戦が終結すると、ホロコーストを生き延びた多くのユダヤ人が流入し、アラブ人との対立は激化。武力衝突が頻発するようになった。土地をめぐる争いに加え、三大宗教の聖地エルサレムの存在が、問題をより複雑にした。
一九四七年、国連において、パレスチナの地の分割が決議される。煩雑極まる分割案は、アラブ人よりユダヤ人に有利なものだった。ユダヤ人への迫害に対する同情と、多少なりともそれに加担したという加盟国の後ろめたさが、決議の背景にあったという。
しかし、アラブ人および周辺のアラブ諸国は強く反発する。
翌一九四八年、混乱の中でイスラエルが建国を宣言し、それに続いて第一次中東戦争が勃発する。イスラエル国家成立に反対するアラブ人、および周辺のアラブ諸国からの義勇軍、アラブ正規軍との武力衝突だ。
この時イスラエルは、アラブ側の「ユダヤ人を地中海に追い落とせ」の合言葉のもと、全戦線で苦戦を強いられる。
困難な戦況を変えたのは、周到で迅速な武器の補給と、個々の兵士の経験と練度、初代首相ベン・グリオンの強権的なリーダーシップによる。
武器の調達には窃取など手段を選ばず、兵士は欧米諸国の軍人として大戦で戦ってきていた。ベン・グリオンは兵士に睡眠時間を与えなかった。兵士の間に訴訟の話が持ち上がったというのが、いかにもユダヤ人らしい。
一方のアラブ側は、兵力で圧倒的に優位に立ちながら、主力となるべき正規軍が、各国の思惑からまとまりを欠いていた。アラブ人の中には略奪に走る者もいたようだ。
この時、ユダヤ人の極右武装組織による、アラブ人村落の破壊と住民の虐殺があり、恐怖に駆られたアラブ人の多くが村を脱出した。
最終的にイスラエルは領土を大きく広げたが、住む家と土地を追われたアラブ人は、七十万のパレスチナ難民となった。
滞在したキブツの土地の所有者だったアラブ人も、ほかの多くのパレスチナアラブ人と同じように、家の鍵だけを握りしめ、追われるようにいずこかへ逃れたのか。それとも、戦火の中で命を落としたのか。
* * *
キブツの周辺には、アラブ人の村や集落が点在していた。かつて隣国ヨルダンの支配下にあった、ヨルダン川西岸と呼ばれる地域だ。そこからパレスチナ人がキブツに働きに来ていた。一九八五年当時、境界線を越えての出稼ぎは、現在ほど厳しく制限されていなかった。
パレスチナ人の仕事は、キブツ内での建設工事や土木工事だった。それらの作業員として、住宅や施設の建設や改修に従事する。日本でいうところの3K労働だ。
強い日差しの下、コンクリートの基礎の上に突き出た鉄筋のはざまで、黙々と作業を続ける若いパレスチナ人たち。Tシャツとジーンズは薄汚れ、髪も顔も腕も埃にまみれていた。日本人に気がついても、何の反応も示さなかった。
パレスチナ人は本来、ユダヤ人と同じように、人懐こくて気さくな人たちだ。少なくとも日本人に対しては友好的だった。アラブの村の中を歩いていると、必ずと言ってもいいほど声をかけてくれた。そして「兄弟」と呼び、お茶を飲んでいけと言う。
一九七二年のロッド空港(現ベン・グリオン空港)乱射事件で二十六人を殺害し、イスラエルで終身刑に服していた日本赤軍の生き残り岡本公三が、私のキブツ滞在中に捕虜交換で釈放されていた。
岡本はPFLP(パレスチナ解放人民戦線)との共闘を公言していたことから、パレスチナ人にとっては英雄だった。だから村の通りで日本人を見かけると「コウゾカモト!」と拳を突き上げ、快哉を叫ぶのだ。
しかし、キブツに働きに来ていたパレスチナ人は、そんな素振りも見せなかった。彼らだけがそういう若者ということではないだろう。キブツの外で会えば、彼らもまた陽気に声をかけ話しかけてくれる、愛すべきパレスチナ人のはずだ。
彼らにしてみれば、たとえ日本人でも、キブツの中にいる日本人はユダヤ人と同じなのだ。
キブツからはアラブ人の集落を望むことができた。
夕暮れ時など、小さな四角い家々から、夕餉の支度の煙が立ち昇っていた。家は西日を受けて白く照り映えて、集落だけが大地から浮かんでいるように見えた。
そんな暮れなずむ風景の中を、そぞろ歩くアラブ人の姿をよく見かけた。アラブの白い民族衣装がよく目立ち、頭を覆うクフィエの、白と赤の格子柄も見分けることができた。ヨルダンで多く見られる色の組み合せだ。
アラブの伝統的な服は老人しか着ていなかったが、姿格好や歩き方からすると、そのアラブ人も年老いた人のようだった。古くからこの地に根を張り、生きてきた人なのだろう。
そこには穏やかで、ゆったりとした時間が流れていた。日本では触れることのできない、ゆるやかな時の歩みだった。アラブ人はそんな風景に融け込み、大地と調和しているように見えた。
* * *
『赤とんぼ』のほかにイスラエルでよく耳にしたのが、『黄金のエルサレム』という曲だ。イスラエルを代表する女性シンガーソングライター、ナオミ・シェメルの曲で、国民に広く愛唱されたことから「第二の国歌」と言われている。詞の内容は国歌と同じく、ユダヤ人の故郷とも言うべきエルサレム(イェルシャライム)への憧れを謳ったもの。
『黄金のエルサレム』が最初に歌われたのは、一九六七年五月の、独立記念日に開催された歌謡祭だった。
この時のエルサレム旧市街と東エルサレムは、一九四八年の第一次中東戦争でヨルダンに占領され、その支配下に置かれていた。ユダヤ教の聖地、嘆きの壁は旧市街にあったので、ユダヤ人は自分たちの聖地に入ることができなかった。
しかしこの状況は、ユダヤ人が世界各地に離散した二千年前から続いていた。『黄金のエルサレム』はそんな歴史を反映したものだった。
この歌謡祭の直後に、第三次中東戦争が勃発する。国境を接するエジプト・ヨルダン・シリアの戦争準備の徴候を察知したイスラエルは、奇襲による先制攻撃を行い、一方的な勝利を収める。嘆きの壁のあるエルサレム旧市街も、イスラエル軍によって占領された。
戦争はわずか六日で終わったが、その間も『黄金のエルサレム』はイスラエル全土で歌われ、戦意を高揚する歌から、勝利を称え喜ぶ歌になった。そして実際の歌詞にも、エルサレムを訪れることができるようになった喜びを謳う一節が付け加えられた。『黄金のエルサレム』にはそんな政治的な側面もある。
だが、これらはすべてあとになってから知ったことで、最初に聴いた時に思ったのは、イスラエルにもこんな哀切な曲があるのかということだった。漠然とした先入観から、乾いた曲調の音楽ばかりだろうと思っていたからだ。
あまりにも切なく悲しい旋律なので、女性の恋の痛みを歌った曲かと思い、大っぴらに聴くのが恥ずかしいような気がしていた。歌っているのはいつも女性だった。
しかし、『黄金のエルサレム』はやはり恋の歌なのだろう。エルサレムに恋い焦がれる切なさと、叶わぬ恋の悲痛な思いがこめられている。そして恋が成就した歓びも。
『黄金のエルサレム』は映画『シンドラーのリスト』でも、解放されたユダヤの人々が「約束の地」をめざす場面で歌われている。
その『黄金のエルサレム』と同じように、イスラエルの国歌『ハ・ティクヴァ』も物悲しい曲だ。およそ国歌とは思えない。「ハ・ティクヴァ התקווה 」とは「希望」という意味なのに。
国を持たないパレスチナの国歌『フィダーイー』が、その名の通り、戦士の勇ましさと力強さに溢れているのとは対照的だ。
『黄金のエルサレム』も『ハ・ティクヴァ』も、エルサレムへの思慕を切々と歌うものだが、改めて聴いてみると、みずからが行なってきたことへの贖罪の曲のようにも聞こえてくる。
ユダヤの人たちの心の奥底にあるものが、マサダやアウシュヴィッツに象徴されるような、虐げられる側の苦しみや悲しみだけではないと思うからだ。
* * *
こんな悲哀にいろどられた曲に心を動かす人たちが、七十年以上もの間、なぜ隣人の悲哀に無関心でいられるのか。
時に冷淡で、冷酷にすらなれるのか。
迫害と離散の苦しみをよく知る民族が、なぜ同じ苦しみをほかの民族に強いるのか。
参考文献等
『おおエルサレム!』ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ著 早川書房 1974年
『フィラスティン・ビラーディ』月刊誌 PLO駐日代表部 1979-1983年
『リッダ』フォージ・エル・アスマール著 第三書館 1981年
『パレスチナ問題入門』鶴木眞著 ティビーエス・ブリタニカ 1982年
『砂漠に渇いたもの』熊田亨著 第三書館 1982年
『パレスチナ問題とは何か』中東の平和をもとめる市民会議編 未来社 1982年
『私のなかの「ユダヤ人」』広河ルティ著 集英社 1982年
『モサド、その真実』落合信彦著 集英社 1984年
『イスラエルに生きる人々』アモス・オズ著 晶文社 1985年
『標的は11人』ジョージ・ジョナス著 新潮社 1986年
『こんにちはイスラエル』中津川由美著 三修社 1987年
『イスラエルとパレスチナ』立山良司著 中公新書 1989年
『栄光への脱出』アメリカ映画 オットー・プレミンジャー監督 1960年
『太陽の男たち』シリア映画 ガッサン・カナファーニー原作 タウフィーク・サーレフ監督 1971年
『ソフィーの選択』アメリカ映画 アラン・J・パクラ監督 1982年
『シンドラーのリスト』アメリカ映画 スティーブン・スピルバーグ監督 1993年
『ライフ・イズ・ビューティフル』イタリア映画 ロベルト・ベニーニ監督 1997年
『戦場のピアニスト』仏・独・英・ポーランド合作映画 ロマン・ポランスキー監督 2002年
『ディファイアンス』アメリカ映画 エドワード・ズウィック監督 2008年
『パレスチナ1948 NAKBA』日本映画 広河隆一監督 2008年
『日本イスラエル総合研究所』ホームページ