三島由紀夫と『葉隠入門』
三島由紀夫のエッセイ風の評論に『葉隠入門』がある。
「葉隠」は、江戸時代の佐賀藩士山本常朝が武士道について論じた書物で、武士の道徳を説いていることから「鍋島論語」とも呼ばれる。「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」の一言でよく知られる。
三島はこれを戦時中から手元に置いて愛読していたという。いわば三島の座右の書で、『葉隠入門』は、そんな三島が「葉隠」の魅力を紹介した入門書だ。また、みずからの死生観や道徳観を述べた人生論であり、日々の処世術を教える実用書でもある。
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現在は文庫本でも出ているが、初めて手にした当時は、光文社のカッパ・ブックスから新書判として出版されていた。
三島の作品はすでにいくつか読んでいて、『葉隠入門』も三島が書いたものらしいということは知っていた。だが、それが武士道について語られた書物とは知らなかった。表紙のタイトルの下に「武士道は生きている」と書かれていたにもかかわらずだ。
三島の本なのに触れることさえしなかったのは、「葉隠」という言葉の字づらや語呂や響きに、なんともいやなものを感じていたからだ。
そこから最初にイメージしたのは、頼りなげな葉っぱで恥部を覆い隠している映像だった。そういう淫靡なものがいやだったのではない。旧約聖書のアダムを連想したわけでもなく、三島の裸体でもない。「葉隠」の言葉そのものに、言いようのない不快感や嫌悪感を感じたのだ。
「葉隠」の入門書なのだから、「葉隠」という言葉は三島の感性を反映したものではないが、こんなぺろんとした言葉のタイトルの本を、三島が書くだろうかとさえ思った。書店で目にするたびに、ああいやだなあと、重い気分になった。
そして『葉隠入門』も、『金閣寺』と同じように、気まぐれから手に取ってみたのがきっかけだった。大きな影響を受ける書物との出会いは、私の場合、おかしな先入観や第一印象のせいでいつも遅くなる。
そうやってめぐり逢った『葉隠入門』は、ある一時期、そうありたいと強く願い、すがるような思いで読んだ書物だった。山本常朝の「葉隠」ではなく、三島の『葉隠入門』でなければならなかった。
当時は会社という「敵」だらけの組織の中で、『葉隠入門』が大きな拠りどころとなっていたことが思い出される。胸に刻みつけるようにして読んだのは、たとえば次のような箇所だ。
会社勤めから解放された今読み返してみると、ずいぶん窮屈で肩肘張った生き方に同調していたように思う。
しかしその生き方は、必ずしも居心地の悪いものではなかった。自分が漠然とこうありたいと思っていたことに、明確な輪郭と価値を与えてくれたからだ。さらに言えば、そんな生き方の美学を教えてくれたからだ。
これらはすべてその通り実践できたわけではない。だが、そうしようと努めるだけで孤立した。しかしそれは、悲観するにはあたらないことだった。「葉隠」は、何かを成すには「隔心に思はれねば」ならない、つまり煙たがれる人間になれと説いているのだから、孤立するのは当然なのだ。
とは言っても、それで実際の仕事がうまく運ぶわけではなかった。会社という組織の中で、一人で推し進めることができる仕事は限られる。その枠を超えたとしても、他人の思惑を無視してまでやり遂げようという、気概も勇気もなかった。
スタイルばかりが先行し、空回りした。同僚の一人からは、もう少し周囲と打ち解けた方がいいと忠告された。
会社内の「敵」には有効かもしれなかったが、同僚や部下には不安や恐怖を抱かせることになった。
ある時、知人の男がやはり三島に心酔していることを知り、『葉隠入門』の話になった。彼も『葉隠入門』の実践を試みたらしいのだが、武士道が似合うような男ではなく、またできるようにも見えなかった。
彼は含羞を滲ませた表情で「あの通りにやると孤立しますよ」と、訥々とした口調で言った。それに対して「そうですね」と私。この時の「孤立」は正真正銘の悲観だった。どちらともなく「あれは疲れる」とこぼしたような気もする。そして二人で力なく笑った。
二人とも『葉隠入門』や武士道への憧れは強かったものの、その高踏精神には遠く及ばなかったということだろう。
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