赤いランドセル
転校生というのはどこか異彩を放って見えるものだ。凡庸な自分たちとはまったく違う世界からやって来たようにも思える。
小学四年の時、早智子という女の子が転校してきた。東京から来たという話などは聞かなかったはずで、実際に東京出身ではなかったかもしれないが、そうとしか思えないくらい垢抜けていた。黒板の前に立って元気よく挨拶する笑顔が、色白で輝いているように見えた。
転校してきてからそれほど経たない頃、下校が一緒になった。というより、最初から一緒に帰るつもりでいたのかもしれない。そして、うちに来ない?と誘ったようだ。その後の自分からすると考えられないくらい、積極的で臆面もないふるまいだ。
学校から自宅までは歩いて二十分くらいの距離だった。何を話したかはまったく覚えていない。
誘っておきながら、一緒に遊ぼうと思ったわけではないようだった。家に着くと早々にさよならをしたのが、自分でも理解できない身勝手な仕打ちだ。
内職の繕い物をしていた母が、庭先から踵を返す女の子を見て、「まあ可愛い子。お人形さんみたい」と言った。下校途中に寄ったのかと思ったかもしれない。
だが、早智子の家は反対方向だった。学校の方角に戻ることになる。申し訳程度に「帰れる?」と聞いた記憶はある。
しばらくすると、庭を走り抜けていく早智子の姿があった。黄色い帽子と、背中で揺れる赤いランドセルが見えた。おそらく道がわからなくなったので、来た道を引き返してきたのかもしれなかった。
一目散に駆けていくその後ろ姿は、道に迷った不安で一杯だった。それを見て怖くなった。追っていって声をかけようという気持ちは少しも生まれなかった。「どうしたのかしら」という母の声に耳をふさぎ、ただ家の中で隠れるように息をひそめていた。
* * *
クラスでは放課後、「反省会」という時間があった。級友のその日の行ないを互いに振り返り、良くないと思った言動を指摘して、改めさせようというものだ。毎日のようにその標的にされた。
「島君は休み時間にプロレスの技をかけていました」
と、誰かが手を挙げて発言すると、椅子から立ち上がって、
「これから気をつけます」
と頭を下げて「反省」するのだ。
そして別の一人が別の悪行を挙げると、再度「これから気をつけます」と答えたうえで、座らずにその場で立たされる。さらにもう一人が追加すれば、同様に三たび頭を下げてから、その場の堅い床に正座させられる。
進行役の司会は生徒が日替りで務めることになっていたが、その司会に当たった日でも、糾弾の石つぶては容赦なく飛んできた。
こんな人民裁判のような「反省会」を考えたのは、厳しいが良い先生という評判で聞こえた担任教師だった。
当時五十代にさしかかっていただろうか。音楽教師で品があったが、がっしりした体格で、生徒が悪さをすると、「ゲンコ」すなわち鉄拳制裁で頭を殴られた。ゴツンとやられる瞬間に固く目をつぶると、頭の中で火花が炸裂した。
軍隊式とも言われた教育方針は、父兄つまり保護者の間でも知れ渡っていた。今なら暴力教師だろうが、当時はそう珍しくもなく、中学にはもっとひどいのがいた。
ある時、一人の生徒が「ゲンコ」に反抗し、小さな腕を頭にかざした。その腕を払いのけようとする教師に、生徒はしばし抵抗を試みたが、教師は生徒の手首をつかむと、その頭に拳を振り下ろした。傲然とする教師を、生徒は怨嗟の眼で見上げていた。
こんな教師のやり方は、おそらく従軍体験によるものだろう。生徒たちは授業の合間に、南方での軍隊生活をよく聞かされていた。
子供というのは時に残酷なものだ。ひとたび「反省会」でカモとして目をつけると、こぞって不行跡をあげつらい、吊るし上げようとする。中には、「島君はコブラツイストをかけていました」とか「四の字固めをかけていました」と、技の名前まで言うやつもいた。
弁解の域を出ないことではあるが、四の字固めはともかく、コブラツイストはそう痛いものではない。「全然痛くないよ」と言われたし、かけられても痛くなかった。
コブラツイストはアントニオ猪木が日本に持ち込んだもので、斬新さゆえ注目されていたものの、実際の「必殺技」としてはそれほどでもなかったのではないか。
と、そんな「反省会」の生徒のやりとりを、教師は終始薄笑いを浮かべながら、教卓の椅子に座って黙って見ていた。
「反省会」で槍玉にあげられた者には救済策も用意されていた。良い行ないが一つでも認められれば、すべての罰が帳消しになるのだ。
そうやっていつも救ってくれたのが、早智子ともう一人の女の子だった。その子も転校生だった。
被告人が窮地に立たされると、二人とも、あるいは二人のうちのどちらかが、司会者に向き直って「はい!」と真っすぐ手を挙げる。
「島君は消しゴムを貸してくれました」「鉛筆を拾ってくれました」
と、その内容は他愛のないことだったが、それで罪は赦され、椅子に座ることができた。
しかし、翌日にはまたプロレスごっこに興じ、「これから気をつけます」とうなだれ、早智子らに助けてもらうのだった。いま考えると我ながらアホとしか思えないが、級友たちの攻撃に怯え、惨めな思いをしながら、少しも懲りずにそんな毎日を送っていた。
* * *
中学は早智子も同じ学校だったが、三年の間、クラスが一緒になることはなかった。時々顔を合わせることがあるものの、言葉を交わすことはほとんどなかった。
早智子は背丈が伸びて痩せていたが、その痩せ方は大人のそれだった。うっすらと化粧し、膝上のスカートをはくようになった。どちらも校則違反だった。短いスカートを翻しながら動き回るその脚は、病んだ小枝のように細く白かった。弾けるような明るさは小学生の時と変わらなかった。
小学校の同窓会は一度も開かれなかった。三年間担任だった「ゲンコ」の教師は、卒業から数年後に亡くなっていた。体があまり丈夫でないことは聞いていたが、屈強そうな体格に、そんな健康状態を重ねることはできなかった。
中学の同窓会は一度だけ出席したが、クラスの同窓会だったので早智子に会うことはなかった。
成人してからも、その姿を見かけることも、記憶にのぼることもなくなっていた。
* * *
アルバイトも含めて仕事をするようになると、おもな通勤手段はほぼ電車になった。多くの会社や仕事を経験したが、電車を利用する通勤形態は変わらなかった。
寝不足や疲れている時など、電車は格好の寝場所と時間を提供してくれた。夜なかなか寝付かれなくても、電車の中では昼夜を問わず、泥のように眠ることができた。
その夜も、仕事帰りの電車の中で眠りこけ、目を覚ますとちょうど降りる駅だった。
膝の上の鞄を持ち、立ち上がろうとすると、前に立っていた女性がこちらを見下ろしている気配に気がついた。やはり降りようとしてか、吊革につかまっていた手を放し、体を横向きにしかけた時、ちょうど目の前に女性の顔を見た。寝覚めの散漫とした頭でも、それがあの早智子であることははっきりわかった。その口元は笑っていた。
同じドアから降りると、早智子は少し先を急ぐでもなく歩いていった。地味な長めのスカートをはいていた。仕事帰りに買い物でもしてきたのか、片手にスーパーのレジ袋を下げていた。
三十年近く経っていても顔立ちは変わっていないように見えたが、その穏やかで落ち着いた後ろ姿に、かつての快活さや俊敏さを見ることはなかった。庭を跳ねるように駈け抜けていった、あの赤いランドセルの女の子とは別の女性だった。
そこに感じたのは、知るよしもない早智子のその後の人生と、長い時間の隔たりだった。
呼びとめれば応えてくれただろう。久闊を叙するということではなしに、言うべきことや言わねばならないことがたくさんあるように思われた。しかしあの時と同じように、声をかけることはできなかった。
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