![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172284818/rectangle_large_type_2_68e4f6e5843c8c60a5dfe3120d6b5103.jpeg?width=1200)
上高地のサルは詩人だった
上高地の二日目は、予報通り朝から雨だった。
一晩中強い雨が降り続いていたようなので、もしかしたら晴れるかもしれないと期待していたのだが、予報は当たってしまった。部屋の窓ガラス越しに見る雨の勢いは、前日に比べれば大分弱まったようだが。
テレビのデータ放送で、上高地の天気予報をほぼ十分おきにチェックする。十分で天気が変わるわけもなく、実際に変わらなかったのだが、せめて雨はやんでほしかった。
そうこうするうちに朝食の時間になった。
前日の夕食は座敷で個別にいただいたが、朝食は食堂のテーブル席を案内された。ほかの宿泊客はまだ来ていない。早出した登山客もいたのかもしれない。
宿の人たちにとっては忙しい時間帯だろうが、そんな物音や気配はまったくしない。申し合わせたように静まり返っている。話すのがはばかれるような静けさだ。話し声が呟きのように小さくてもよく聞こえる。普段いかにテレビの騒音に馴らされているかを思う。
朝食は山宿らしい素朴さを感じさせるものだが、それでも十分過ぎるほどの内容と量だった。
にもかかわらず、残さず食べても飽食しないのが不思議だ。一日かそこらで胃拡張になるはずもないだろう。旅先では朝から大食いなる。
チェックアウトを済ませてから、荷物を宿に預け、明神まで歩くことにしていた。
前日と同じセーター姿のご主人らしい人が、玄関の上がり口に立ちはだかって、客の応対にあたっている。
そこに、朝の散歩にでも出ていたのか、母親と二人の子供が入ってきた。母親はぴったりしたクリーム色のパンツをはいていて、幼な子を従えながらも堂々とした佇まいだった。外国人であることがすぐにわかった。
ご主人もそれに気づいたようで、どう接するかと思ったら、「グッド・モーニング」と話しかけた。最初チェックインと勘違いしたようだが、いくつかの英語の言葉をやり取りし、しっかり会話として成立していた。決してたどたどしい英語ではなく、しかも饒舌だ。
沢渡のバス乗車券売り場の女性もそうだったが、外国語と縁のないような年齢の人たちが、外国人を相手に物怖じすることなく、立派な英語を使いこなしている。
ご主人の話しぶりをまのあたりにして、自分が無意識のうちに抱いていた偏見を恥じた。そして、今の接客業には外国語のスキルも要求されるのかと、その努力と苦労を思った。
前日よりは雨脚が弱まったものの、梓川の水量は明らかに増していた。川原の玉砂利がすっかり見えなくなっている。濁流というほどではないが、茶色く濁って流れも速かった。
それでも河童橋は朝から雑踏していた。
この橋は水面からそう高くないはずだが、私にとっては足をすくませるに十分な高さがある。大勢の人が歩いているので揺れるうえに、緩やかだが滑りそうな勾配があり、足元にはところどころ水が溜まっている。
夜間か早朝に通った動物がしたのか、端の方に緑褐色の糞が落ちていた。それを大仰によけるふりをして、橋のなるべく真ん中を歩こうとして人にぶつかる。
恐るおそる上流の方角を見ると、穂高の峰々はやはり雲に隠れているものの、前日のような灰色の重々しい雲ではない。ゆっくりとだが動いているのもわかる。
「見えてくるかもしれない」
と、妻が期待をこめて言う。
「雲が動いているから、少しは見えるかもしれないけどなあ」
それはほんの一瞬のことだった。雲が途切れ、黒々とした穂高連峰が顔をのぞかせた。西穂から奥穂にかけての稜線と吊尾根がはっきりわかる。
「見えた! やったー!」
と、妻は差していた傘を押しつけ、スマホを取り出して穂高に向けた。しかし、スタンスとアングルがなかなか決まらないようだ。欄干から身を乗り出したり、後ずさりしたりしている。他人がやっているのを見ても怖くなるが、そんなことで見え方が変わるはずもないので、橋を降りてあちこち動き回っている。気がつくと、被写体は白い雲に覆われていた。
だが、そんなことはもう気にならないようすで、
「ほら、よく撮れたでしょ。いいねえ」
と、自賛しつつスマホの写真を見せた。しっかり撮っていたようだ。
確かに写真としてはよく撮れている。山水画のような趣もある。しかし‥‥。
穂高はこんなもんじゃあねえんだよなあ。
梓川の両岸には遊歩道がある。河童橋を背に、穂高連峰に向かって右が左岸、左が右岸と、少し紛らわしいのだが、これは上流から下流を見た場合の呼び方だ。その左岸右岸に遊歩道が通っていて、二つは約三キロ先の明神で合流する。
前日の夕食の時、宿の人から、左岸が土砂崩れのため通行止めになっていることを聞いていた。大雨注意報が出ていたくらいだから、やはりかなりの降雨があったのだろう。
あらかじめ計画していた通り、右岸つまり左側の道を行くことにした。
遊歩道は河童橋から歩き始めてすぐに、樹林帯の中を行く木道になった。
やがて視界が開けたデッキに出ると、右側に岳沢湿原の一画をなす沼があった。
この湿原から左への分岐があり、中腹の岳沢を経て穂高岳に至る登山道になっている。このルートは過去に何度か歩き、湿原や沼の存在には気づいていたはずだが、ほとんど目もくれずに通過してしまったようだ。まったく記憶にない。
雨はやみ、空が明るくなってきていた。雲の切れ目から青空が見える。間近に迫る六百山の山ふところから、霞のようなガスが立ち昇り、ゆっくりと動いていった。
沼とは言いつつ、そう呼べないような開放的な場所で、水は明るく澄んでどこへともなく流れていた。水面にきらめく光を避けて水の中を窺うと、濃淡さまざまな緑色の藻や水草が、流れのままにゆらめいている。雨に洗われた立ち枯れの木が、対岸に真っすぐ並んで朝日を浴びている。デッキから足元の水の中を覗き込むと、イワナかマスの仲間だろうか、泳ぎ回る稚い魚の群れが見える。
前日の田代池でも感じたことだが、ここ岳沢湿原の光景のひとつひとつも、すべてがそのあるべき場所を得て、絵画に見るような一定の法則のもとに配置されている。立ち枯れの木にしても、まるで人が位置やバランスを考えて、風景の中で一番映えるように植えたかのようだ。いったい展望スペースというものは、景色がよく見える場所を選んで設置するのだろうが。
景観のひとつひとつが人の手によるものなら、いかにもという胡散臭さを嗅ぎ取ってしまうかもしれない。だがここはそういう場所ではない。自然の造形が人間に見られることを予期しているかのようで、その摂理の妙にしばし思いをめぐらせることになった。
このあたりにもクマが出没するようだ。遊歩道脇の複数箇所に、「クマ目撃情報」と書かれた看板が立っている。クマが目撃された日時と場所、頭数などを記し、日本語と英語で注意を呼びかけるものだ。クマ除けの鐘と同じく、今回の上高地で初めて見た。
こんなに人が多いのに、というより人が多いからクマに遭遇する機会が増えるのか。それとも、出没するクマ自体の数が増えているのか。
しかし、人が山でクマに遭遇することは、そう滅多にないのではないだろうか。
山の中を歩いていると、さまざまな野生動物を目撃する。北アルプスに限っても、このあたりにしか棲息しない種を含め、毎回何がしかの動物に出会う。
たとえばライチョウ。初めて見たのは夏の室堂平だった。親子連れの数羽のライチョウが、観光客がすぐそばで見守る中、何かをついばみながら忙しなく歩き回っていた。国の特別天然記念物にして絶滅危惧種のこの小禽の第一印象は、ウズラだった。
ライチョウはよく、霧で方角を失った登山者を導くように姿を現すという。
黒部源流の山々に登り、下山しようという日の前夜半に、一帯を台風が通過していった。夜が明けても風雨は収まらなかったが、日程に余裕がなかった。翌日には出勤しなければならなかった。考えあぐねた末に、同じ境遇らしい二人の男と小屋を出た。予備の休みが取れずに強行することが、遭難の一因になるということは知っていたが、どうにかなるだろうと肚を括ったのだ。
視界は十メートルもなかった。稜線を行く登山道の片側の谷底から、上昇気流のような強風が吹き上げていた。飛ばされないように体勢を低くして進むと、ハイマツの中から一羽のライチョウが現れ、すぐ目の前を歩き始めた。こちらが速く歩くと足早になり、速度を緩めると足を止め、横顔を向けてこちらのようすを窺っている。ライチョウごときで状況が変わるわけはないのだが、その姿は張り詰めたままの神経を解きほぐしてくれた。
やがてライチョウは道をそれ、ハイマツの中に姿を消した。
奥穂から山荘へ下る急斜面は、日が当たらず凍りついた岩場が続いていた。夏に逆コースを取って登った時とは、様相がまったく違っていた。滑りやすい岩場をどう下ろうかと途方に暮れていると、目の前の岩に一羽のイワヒバリが飛んできてとまった。元気のない人間を見つけて興味を示したようだが、面白味のない奴というのがわかったのか、つれなくも軽やかに飛び去った。
おまえみたいに空を飛べたらいいなと、心底思った。そして、でも高いところは怖くないのかとも。
これも奥穂。頂上直下の岩に腰を下ろし、遠くの山並を眺めながら昼食を食べていると、足の間の岩の隙間からオコジョが顔を出した。オコジョは目の前の人間に注意を払うでもなく、しかし敏捷な動きで顔を引っ込めた。どこに行ったかと岩の中を覗き込むと、少し離れたところから顔を出した。オコジョはモグラ叩きのモグラのように、あちこちで顔を出しながら遠ざかっていった。
横尾から涸沢に向かう途中の、小高い斜面の上に、一頭のニホンカモシカが現れた。写真で見て思い描いていたより、ずっと小さく華奢な体だったが、人間と遭遇しても驚いたようすはなかった。ざわめく登山者たちをしばしじっと見て、所在なげにそぞろ歩いてから、斜面の向こうにゆっくりと降りていった。あれは孤高の威風なのか。それとも鈍重なだけなのか。
それではクマはどうか。
何年か前、栃木の深い山奥にある一軒宿の温泉に行った時、麓の駐車場や休憩所や道路沿いのいたるところに、「クマ出没注意」の看板や貼り紙があった。それはもうウンザリするほど大量の注意喚起で、わかってるよと呟きながらやり過ごしたものだが、宿の女将さんの話では、クマを見たことは一度もないという。
私自身、奥深い山中を一人歩いていて、クマと見まがう人に遭遇したことはあるが、本物の野生のクマを見たことはない。
そんなに出るなら、お目見えしたあかつきにはやっつけてやるぞと、ひそかに遭遇を期待していたところ、テレビでヒグマに襲われたニュースを見てぞっとした。子連れの母グマが車に突進してきて体当りし、車体前部を破壊する映像だ。ツキノワグマはヒグマに比べれば小さいものの、あんなふうに向かってこられたらなすすべもないだろう。軽佻浮薄な勇ましさは妄想にとどめるべしと肝に銘じる。
そして、遭遇する確率が1パーセントに満たなくても、遭遇してしまったらそれがすべてになるということも。
遊歩道はしばらくすると、右手に川を見下ろす樹林帯の中を行くようになった。木々の枝葉が頭上を覆い、仄暗い木道や階段を上り下りしながら歩く。
木の間隠れに見える梓川は、出発した時に比べると水量が減り、川底が見えるくらいに澄んでいた。標高の高いところを奔り流れる川の復元力に驚く。
山の中を歩いていてよく気づくことだが、路傍の水たまりや溝のような場所ですら、水が清流のように澄んでいる。上高地も例外ではなく、木道脇にできた淀みのどれもが、淀みとは呼べないくらいに澄み切っていた。
しかもその多くに魚の姿がある。そこを棲み処としているようにも見えるが、取り残されて困惑しているようには見えない。近くに流れや湿地があるので、どこかでそれらと繋がっているのか。
しばらく歩くと、左手に少し入ったところに、森の木立に抱かれたような嘉門次小屋があった。名前だけはつとに聞いていて、登山者しか行くことができない山中にあると思っていたのだが、観光客が行き交う遊歩道脇にあった。ここは穂高神社奥宮の参道でもあるのだ。
上高地の杣人にして猟師・漁師の上條嘉門次は、日本アルプスの名を広めたイギリス人宣教師ウェストンの案内人をつとめたことでも知られる。
木造平屋の嘉門次小屋は、昔ながらの鄙びた日本家屋の佇まいを残す、文字通りの小屋だ。
ヤマドリが翼を広げて伏したような、ゆるやかな勾配の板葺の屋根に、大小いくつもの石が無造作に置かれていた。開け放たれた仄暗い板敷の間に、何人かの客が囲炉裏を囲んで座っていた。囲炉裏には小さな火が熾きていた。そして炉べりには、火にさしかけるようにイワナの串が立ててある。
イワナを焼く煙が低い軒先から立ちのぼり、香ばしい匂いがあたり一面に漂う。薪のとろ火でじっくり焼かれ、したたる脂が火に落ちて一瞬のうちに消えるさまが、目に見え音に聞こえるようだ。そして、やわらかな身に皮ごとかぶりつく感触と、口腔いっぱいに広がる馥郁とした旨味‥‥。
イワナの塩焼がもたらす幻想は、立ち寄っただけの者を幸福にし、そして悩ませる。
この囲炉裏の間は、国の有形文化財に登録されているという。
嘉門次小屋の前の参道突当りに、穂高神社奥宮がある。本宮は安曇野市にあり、奥穂高岳の頂上には嶺宮があるそうだ。確かに祠はある。
この小さな神社を多くの人が訪れるのは、境内に明神池があるからだろう。池は神社の神域になっていて、参拝するには拝観料が必要だが、それだけの価値はあった。
カラマツの間の小径をたどると、すぐ目の前に明神池はあった。池の中央に向かって木の桟橋が伸びていて、二艘の小舟が横付けされていた。神事か池の整備にでも使うのだろうか。
桟橋の突端に小さなお社があり、そこで参拝できるようになっている。
「神秘的」という言葉でよく形容される明神池だが、閉ざされたような曇天の下、池は暗い深緑色に沈んで、対岸の針葉樹林の水際は不気味ですらあった。
風が渡ったのか、そのあたりの水面が白く漣立ち、形を変えながら走っていって消えた。それは生き物のようで、小魚の群れが戯れているようにも見えたが、何か沼底にひそむ物の怪がうごめいているようでもある。小舟で漕ぎ出したら、底知れぬ淵に引きずり込まれそうだ。神秘と恐怖がほとんど同義語であることを知る。
明神池から梓川沿いの遊歩道に戻ると、すぐ左手に明神橋がある。
また雨が降り始めていた。宿で借りてきた大きな傘をさす。
明神橋は河童橋と同じ吊り橋だが、人の姿は河童橋よりずっと少なかった。
橋を渡って森林の中を少し歩くと、寺院の伽藍のような建物の一角が見えてきた。山宿の明神館で、二階建ての立派な一軒宿だが、大きなザックを背負った登山者が行き交っていて、山小屋と呼ぶのがふさわしい宿だ。ガラス戸を開けると食堂が混みあっていたが、簡素な受付フロントの奥には、いかにも山小屋らしい暗がりが広がっていた。
明神館の創業は西暦一六〇〇年というから、関ケ原の戦いがあった年だ。
梓川左岸の遊歩道がここで合流する。遊歩道を川沿いにさかのぼると、さらに山小屋らしい風情の徳沢と横尾の山荘がある。そしてその先には穂高と槍が。
食堂で食事をとる人たちや、外のベンチで身支度をする人たちは、穂高か槍に登って下山してきたのだろうか。それともこれから登るのだろうか。
徳沢方面から歩いてきた人たちは、みな大きな荷物を背負い、全身が雨に濡れていた。傘をさしている人はいなかった。
ベンチで身支度を終えた何人かは、山荘の壁に立てかけてあった大容量のザックを背負うと、下ってきた人たちと入れ違いに、徳沢への仄暗い道に消えていった。
登山者の表情はどれも淡々としたものだったが、そこに昂揚感を見出そうとするのは、自分も登りたいと痛切に思うからだ。
明神橋に戻ると、先ほどより人が増えていた。雨がなお瀟々と降り続いている。
天気が良ければ、対岸の正面に明神岳を仰ぐことができるそうなのだが、そこは雲とも霧ともつかぬものに覆われていた。
川の上流に目を転じても、穂高がそそり立っているであろうあたりは、模糊とした白一色に塗りこめられている。岸辺の樹木が薄墨色に滲んで、幾重にも重なりながら、朧ろな霧の中にのみこまれていた。降りしきる雨のために、視界がさらに限られていた。澄んだ川の水だけが鮮明で、速い瀬音を刻んで橋の下を流れていた。
橋の上やたもとで立ち止まった観光客が、雨に打たれながらも、思い思いの方向にカメラやスマホを向けていた。
邪魔にならないよう橋から離れていると、今しがた来た道の方から、一匹のサルが歩いてきた。
そのさまがあまりに自然だったので、最初はサルとは思わなかった。茶色い毛色が目に入ったが、上高地にも犬がいるかと、ほとんど思う間もなくサルに気がついた。
サルは周囲の人間をまったく気にするようすもなく、その足元を悠然と歩いていく。観光客は写真を撮るのに夢中で、サルの出現には気づかない。本来なら同一空間を共有することのない生き物同士が、互いのテリトリ-とゾーンを侵すことがないまま、何の違和感もなく共存している。それはどこか非現実的な光景だった。
背を向けていた白人女性の一人がサルに気づいた。女性は上高地のサルとの接し方をわきまえていたようだ。声を上げるでもなく、静かに控えめに、サルにカメラを向けた。ほかの人たちも次々にサルに気づき、同じようにカメラやスマホを向け始めた。
サルは橋の中央あたりまで歩くと、さすがにカメラを向けられるのが鬱陶しくなったようだ。手摺りに飛び乗り、太いケーブルを器用に伝って、反対側のたもとの柱に登った。そしてそのてっぺんに座ると、川の上流に視線を向けた。
視線の先にあるのは白く垂れ込めるものだけで、目を凝らしても何も見えないだろう。それでもサルはどこか遠くを見ている。
風が少し出てきていた。サルの丸めた背中には、こまかい雨滴がまとわりついているはずだ。雨は顔をも容赦なく打っていることだろう。だがサルは目をしばたたかせるでもなく、ことさら見開くでもなく、身じろぎもせずに彼方を見つめている。その無表情の表情からは、さまざまなことが読み取れるようだった。勝手気ままな憶測は妄想に発展した。
おそらくサルは群れのボスで、みずからの縄張を確かめ守るために、境界の中を見回っていたのだろう。その風貌に漂うのはたぶん寂寥感で、群れを統べるリーダーとしての立場に疲れ、自由を求めて叶わぬ魂の、静かな諦観が滲み出たものかもしれない。
あるいは、サルは群れを率いるボスなどではなく、みずからの意志で集団を離れ、ひとりで生きることを選んだ異端者なのかもしれない。そのおもてに去来しつつ揺曳するのは、孤独がもたらす悲哀と幸福だろう。
だが、サルの心の内奥にひそむものが何であるにせよ、彼は何が自身を慰め、祝福してくれるかを知っていた。それははっきり目に見えるものでなくてもいいのだ。応えてくれるものは彼自身の内にある。それを生むのが夢想する力、詩人の才能だ。
そして、詩人が座っているところから何かが放たれた。それは下を歩いてきたアジア人女性の傘をかすめ、足元の小さな水たまりに落ちて、緑褐色のかたまりがあえなく潰れた。
帰りはもと来た右岸を引き返し、河童橋に着いたのは十二時少し前だった。
雨は降り続いていたが、橋の周囲は相変わらずの人出だった。
湿気がひどく、耐えかねて袖をまくり上げると、生温かい湿り気が腕に貼り付いた。上高地にもこんなジメジメした日があるとは‥‥。
土産物屋も人で一杯だった。軽食コーナーが併設されていて、窮屈そうだが座って食事ができる。メニューにラーメンがあり、何人もの人がラーメンをすすっていた。上高地でラーメンでもないだろうが、いい匂いが店内に満ちていた。
その日は松本市内の旅館に泊ることになっていて、例によって夕食をたらふく食べるだろうから、昼食は簡単に済ますことにしていた。土産物屋の隣の店でアップルパイを食べる。
宿に帰りつくと、一人の青年が「何名様でしょうか」と迎えてくれた。昼はレストランとして営業しているので、ランチの客と思ったらしい。気持ちのいい対応は好青年と言ってよく、スポーツマンのようでもある。山登りをするのかもしれない。ザイルとピッケルの重装備が似合いそうだ。
荷物を受け取り、礼を言って玄関を出る。何人かが笑顔で送り出してくれた。
この宿で印象的だったのが、働いている人たちの笑顔だ。それは客に向ける笑顔だけでなく、従業員同士で談笑する笑い顔もそうなのだ。客をないがしろにした無駄話で笑い興じるというのではない。呵々大笑することなく、ひそひそと忍び笑うでもなく、互いがごく自然に親しみながら、和やかな雰囲気を醸し出している。それはまた、客に緊張を強いることのない親しみやすさであり、和やかさでもある。
ご主人は少々ぶっきらぼうだが、従業員のふるまいは経営者の人間性を反映する。ご主人はやはり侮れない人のようだ。
バスターミナルへの道を急いでいると、雨が激しくなってきた。
とどめは一陣の突風だった。混みあう乗り場で高くかざした折畳み傘が、一瞬の強い力でもぎ取られそうになった。強風はその一撃だけだったが、傘はものの見事に裏返り、柄がくの字の形にひん曲がった。
* * *
上高地と信州の旅行から帰ってきて、サルのことばかり考えていたら、ある夜こんな夢を見た。
そこはおそらく小さなラーメン屋か定食屋だった。食券の券売機の前に二匹のサルがいて、客に代わって食券を買ってくれる。
サルは客からお金を受け取ると、券売機の現金投入口にお金を入れる。紙幣を狭い投入口に入れる時は、両手を使って大事そうに差し込む。そして二匹で一緒に、パネルのメニューボタンあちこち触りながら、注文品のボタンを探しあてて押す。食券が出ると素早くそれを取り、客に向き直って手渡す。
サルが客の注文をどういうふうに理解するのか、パネルのボタンをどう読み取るのかは不明。店の外で動き回っている一匹は、順番を待つ客の応対に当たっているのだろうか。
サルたちはみな楽しくてならないようで、喜々として仕事をこなしていく。券売機の二匹のサルは、一人分が終わると次の客を見つめ、注文されるのをじっと待っている。外の一匹のサルは、客が列を乱さないよう、なんやかやと世話を焼いている。
こんな愉快な店が実際にあったら、さぞかし繁盛するのではないだろうか。
おさるのラーメン屋喜々、食事処えてきち‥‥。