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酒飲みのエレジー

 忘年会の季節。
 職場の飲み会は親睦を図るために開かれるが、そういう場では人間の本音や本性が、本人の意思とは無関係に露わになる。我慢して溜め込んでいたものを吐き出してやろうという確信犯がいる一方で、そんな気など全然ないのにやってしまうゝゝゝゝゝゝ過失犯がいる。言うまでもなく、犯行に駆り立てるのは酒だ。

*  *  *

 新しく上司になった人は、飲むと性格が変わると言われていた。俗に言う絡み酒で、ネチネチと執拗に絡み、難癖や言いがかりをつけるという。トリモチみたいにベッタリ貼り付いて剥がれないのだと、ある社員が頭からトリモチを引き剥がすような仕種をしながら話していた。
 その上司が異動してくる前の、会社全体の飲み会でそばを通りかかった時、いきなり「シマ、テメエ、バカヤロー!」と怒鳴られたことがある。
 一緒に仕事をしたこともないのに怒られるいわれはないのだが、酒癖の評判はすでに聞いて知っていた。トリモチではなかったが、なるほどなと納得した。

 その新しい上司、新部長は、普段は目立たない存在だった。
 部長くらいの椅子に座っていれば、仕事の現場ではおのずと目立たなくなるものだが、その部長は小柄なせいもあり、いるのかいないのかわからなかった。周囲に遠慮したり気圧されたりしていたわけではなく、だから消え入りそうという風情でもない。
 時々小さく頷いたり首を傾げたりしながら、ひとり書類や資料に目を通している姿は、そんな地味な仕事を楽しんでいるようにも見えた。

 部下の声や要望にはよく耳を傾けてくれた。
「企画開発部から回ってきたこの新商品資料、読んでみてください」
「ふむふむ」
「商品自体が手許にないのに、こんな杜撰な資料ではお客様に説明できませんよ。同じようなことが何度もあるので、そのたびに直接言っていますが」
「そうだよ。こんな紙っぺら一枚で説明しろっつうのが無理な話なんだよ。自分らはわかっていても、こんなスカスカの内容じゃあ、うちらにもわかるわけがねえだろ。お客さんのことも考えてるのかってことだ。大体がだな‥‥」
 と、自分のことのように憤慨し、恨みつらみを述べ立てる。むろん素面だ。片鱗かもしれないと思うのだが、会社側にはいつもきちんと伝えてくれた。よく見せようという虚栄心や、うまく立ち回ろうという計算高さもなかった。

*  *  *

 その部長と飲みに行ったことがある。
 仕事が片付いて帰ろうとしていた時、やはり帰り支度をしていた部長に、「シマ、飲みに行くぞ!」と声をかけられた。
 部長と二人で飲むのはそれが初めてだった。行きつけの店という天ぷら屋の、明るいカウンター席に座った。
 ビールから始まり、サワー、日本酒と杯を重ねた。注文ごとに揚げてくれる天ぷらも旨かった。
 話題は他愛ない世間話の域を出なかったが、部長は陽気で快活だった。思いがけない楽しい酒に、本当は好人物なのかもしれないと、思い始めていた時だった。部長が突然言い放った。
「ここまで会社の悪口を言わなかったのはエラい!」
 自分と部下のどちらを偉いと言ったのか、どちらも偉いという意味なのかわからないが、それをきっかけに部長の態度が一変した。
 と言うより、それがいつもの酔っぱらいとしての姿なのだろうか。
 陽気さや快活さは消え、声も話し方も表情も陰鬱一色に染まった。目つきは猜疑心に満ちていた。口をついて出るのは会社への愚痴ばかりになった。
 感情が激することがないまま、不平不満や繰り言が延々と続いた。
 最初のうちは相槌を打ちながら聞いていたが、その陰々滅々とした話しぶりに、次第に気が滅入るようになってきた。それを察したのか、矛先がこちらに向けられるようになった。言葉の一つ一つがねっとりと絡みつき、まとわりついて、身動きできなくなるようだった。トリモチだった。
 部長の声が大きくなり、あたりかまわず怒鳴り散らすようになった。叫んでいることが意味をなさず、獣が唸り声をあげているようだった。上体が激しく揺れ、腕が暴れだした。振り回した手がグラスに当たって倒れ、飲み残しのサワーがこぼれた。
 カウンターの向こうで女将さんが「あらら」と小さく叫び、身を乗り出してテーブルを拭いてくれた。出た方がいいと思った。
 女将さんに勘定を頼むと、部長が「俺が払う」と呟いて、長財布から紙幣を数えて取り出した。理性がまだいくらか残っているようだった。
 帰りしな、女将さんに「また来てね」と言われたが、その目は「もう来るな」と告げていた。

*  *  *

 絡むということは聞いていたが、あんな狼藉をはたらくとまでは思わなかった。
 しかしアルコールが入ることで、普段の姿からは思いもよらない行動に走るのは、この部長に限ったことではない。
 同じような例は社内にたくさんあった。
 会社では淡々として仕事をこなし、一目置かれている管理職が、飲みに入った店で前後不覚になるほど泥酔し、気がついたのは翌朝の路上だった。そばには見ず知らずの男が寝ていたので、その男と飲んで酔いつぶれたのだろうということだった。
 ある若い社員はわだかまりのない素直な性格だったが、居酒屋で隣り合わせた男と口論になり、乱闘になって大怪我をした。包帯姿も痛々しい彼は、そのことを少しもわだかまりのない素直な口調で話した。
 仕事をテキパキとこなす別の社員は、懇親会の席で酔って社長に暴言を吐き、上司らの管理責任問題になりかけた。本人は自分がしたことをまったく覚えていないので、覚えていないから謝る必要はないと、開き直るわけでもなく話していた。
 忘年会の会場で何人かが騒ぎを起こし、怪我人が出て救急車が呼ばれた。以後その店での会食は拒否されるようになった‥‥。

 酒乱にまでおよぶ酔態のすべてが、会社がらみのものに起因するのではないかもしれない。その人固有の資質や体質にもよるだろう。
 だが、会社への不平不満や鬱積したものがなければ、人は、と言うより会社員は、もう少しきれいな酒の飲み方ができるはずだ。しかるに、会社には不平不満や鬱積するものがワンサとある。
 人間は社会的動物と言われるが、会社という社会の中で、人は何かにつけガマンすることを強いられる。表情を失ったサラリーマンの顔を見るたびに、そのガマンの強さや深さというものは、人間性を損なうほど計り知れないものではないかとすら思う。
 オフィス街のビルを見上げ、そこで働く人たちの何百何千ものガマンに思いをめぐらすと、その総量にぞっとしたりする。
 会社というものは、目に見えないところでとっくに崩壊しているのかもしれない。人間は因果なものを作ったなと思う。

*  *  *

 部長の話には続きがある。
 店を出たあと、部長の足取りが覚束なかったので、腕を支えながら歩いて駅に向かった。通りにはまだ大勢の人が歩いていた。
 駅の階段をどうにか上がり、改札口の前まで辿り着いたところで、反対側の階段から上がってきた、コンピューター室の栗田課長と出くわした。課長は二人が飲んでいる間、ずっと仕事をしていたのだ。
「どうしたんですか?」
「見ての通りですよ。飲んで暴れました」
 課長は苦笑いを浮かべながら、部長のもう一方の腕を支えてくれた。
 三人で改札を入ると、それまで黙っていた部長が、トイレに行くと言いだした。心配だったが、先に課長と階段を降り、ホームで待つことにした。
 電車が入ってくるのと、部長が階段を下りてくるのが同時だった。部長は「おっ」と声を上げ、階段の途中から一気に飛び降りた。自分の背丈以上の高さがあった。
 部長の脚が体操選手のように大きく前後に開き、ワイシャツ姿が豪快に宙をんだ。
 おおカッコいい!と思った次の瞬間、部長の体は頭からホームに叩きつけられていた。手足がバラバラに折り重なるような落ち方だった。
 課長と二人で駆け寄ると、頭から出血していた。
「大丈夫ですか!」
 と助け起こすと、目を見開いて意識ははっきりしていたが、何が起きたのかわからないようだった。
 出ていく電車の最後尾から車掌が身を乗り出し、指差し確認のように部長を指さすと、「駅長室」と言ってその手を階段の上に向けた。 
 部長の体を課長と抱えながら、階段を上がって駅長室に運び込んだ。
 アルコールが入っているためか、出血はなかなか止まらなかったが、さしあたってほかに異常はないようだった。駅員が出してくれたタオルを頭に巻いた。ワイシャツは肩のあたりまで赤く染まっていた。
「痛くないですか?」
「大丈夫ですか?」
 と繰り返し訊くものの、部長は質問には答えず、ずっとくだを巻いていた。意味はわからなかったが、痛みはなさそうだった。
 すると突然、
「〇〇駅の駅長室のガラスを割ったのはオレだぞ!」
 と叫んだ。あちこちで罪科を重ねているようだった。

 部長を家まで送っていくことにしたが、電車では不安だったのでタクシーにした。
 課長には礼を言い、帰ってもらうことにした。とんだトバッチリだったろうが、心根の優しい課長は済まなさそうに「お願いします」と言った。
 タクシーに乗る時、運転手に「汚さないでくださいよ」と言われた。血で汚さないでくれという意味ではなく、吐くなということだろう。部長はまだ泥酔状態だった。
 だが、シートに座ると部長はおとなしくなった。眠ることもなく、時々運転手に道順を指示していた。
 部長はどんなに酔っていても、ハンドルを握った瞬間に覚醒すると聞いていた。飲酒運転は当時も重大な法令違反だったが、まあ大丈夫だろうと、運転する輩は少なからずいた。部長も車では正気を取り戻していたのか。
 部長宅には滞りなく着いた。指示は的確だったようだ。
 玄関に現れた奥様は、夫の姿を見てもまったく驚かなかった。部長はあらかじめ電話をしていたのか。

 翌日は代休だった。始業時間に会社に電話をかけてみた。
「小菅部長はいらしてますか?」
「ああ、小菅部長は‥‥」
 と、いつもは歯切れのよい応対をする総務の女性が、それだけ答えて言い澱んだ。
 亡くなられました、という返事を覚悟した。
「会議中なんです」
「カイギ?」
「管理職会議です」
「怪我はしていない?」
「怪我? おでこに絆創膏を貼っていましたけど」
「そうですか」
「伝言があればお伝えしますよ」
「いや、いいです」
 前日の顛末は知らないはずだと思い、それで電話を切った。
 ──会議かよ。一体どのツラ下げて。

 部長の怪我は、目の上を切っただけで済んだようだった。
 本人はあの晩のことをあまり覚えていないようで、怪我も部下たちのせいにされていた。
「シマも栗田も、オレよりずっと背がたけえんだよ。二人して両側からオレを抱え込んで、階段の上から突き落としたんだよ」
 栗田課長は一八二センチの長身だった。
「私らがやったと思っているみたいですよ」
「ははは」
「そう思わせておきましょうか」
「うん。そうですね」
 課長も愉快そうだった。

*  *  *

 数年後、部長は役員に昇進し、やがて定年を迎えた。会社には残らず、退職することになった。
 役員が担当する部署の社員全員で送別会を開き、色紙に寄せ書きをして贈った。
 色紙の真ん中には私が似顔絵を描いた。酔っぱらいの定番スタイルで、早くから決めていた。ワイシャツの裾がはみ出て、寿司折をぶら下げながら、千鳥足でよろめく赤ら顔の役員だった。目の上には絆創膏をバツの字に描いた。
 ハワイの格安パック旅行があるのだと、役員は楽しそうに話していた。ゴルフ三昧に明け暮れるのだろうと思った。そして、美味うまい酒も心穏やかに飲めるだろうとも。
 だが、その訃報に接したのは、退職から何年も経たない頃だった。

 部長の酒は過失犯だったのか、それとも確信犯だったのか。


記 事 一 覧

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