人の足を踏む人。人に足を踏まれる人。
「足を踏んでいる者は踏まれている者の痛みがわからない」
これは差別するものの鈍感さを言い表した例えだけど、わたしは実際に、よく足を踏まれる。そして、大抵の人は、わたしの足を踏んでいることにも気づかない。
わたしはあれが、不思議でたまらなかった。
だって、「違和感あるでしょう?」って。
とある。
そうだと思う。
足裏の違和感って、すごく感じやすい部分だと思う。
それなのに、人の足を踏みつけたまま、平然としていられる人がいる。
感じていないのか、違和感はあるけど気にもとめていないのか。
平和で安全な生活によって、感覚が鈍ってしまったのではないだろうか。
それが地雷だったら、ただでは済まない。
もちろん、踏んでいるのは人の足であって地雷ではない。
だから多くの場合、爆発はしないし、痛みを感じているのは「足を踏まれている人」のほうだ。
そして多くの場合、踏みつけられた足の痛みよりも、踏みつけにされた心の痛みのほうを感じている。
まず、「あれ?この人、人の足踏んでるけど気づかないな?」と思う。
つぎに、「普通、一瞬にして気づくでしょ?どうなってんの?」と困惑する。
そして、足を踏みつけられたままの自分がいたたまれなくなってくる。
こちらの存在を認識すらしてないであろうその人は、それでいて足を踏みつけたままだ。
わたしは、そこを立ち去ることもできない。
こうした関係は、夫婦間や親子間でも起きやすいと思う。
多くの場合、夫が足を踏みつける人で、妻が足を踏まれる人。
親が足を踏みつける人で、子供が足を踏まれる人。
その場から逃げるには、「その足、どけてください」と声をあげるしかない。
だけどそれには勇気がいる。
だって、「人の足を踏みつけにした状態で平気な人」は、人の心を失った異常者にしか見えないわけで、本来ならば関わりたくもない。
わが父は、アスペルガーで、自己愛性パーソナリティ障害で、差別の対象にされる側だったかもしれない。けど、差別する側になっている。女子供を。
『ミステリと言う勿れ』に整くんのこんなセリフがでてくる。
「女性はこうあるべき」と型にはめてきたのが“おじさん”だとして、わが父もその一員だとして‥‥
あれ?昭和のおじさんたちって、みんななんかしらの発達障害で、自己愛性人格障害だったのでは?
と思った。
差別する側とされる側、人がどっち側にいるかなんて、その場の空気で変わる。
多数派であれば、それが人道に反していて、異常な価値観だとしても「正」になる可能性がある。
事実、日本は自己愛性人格障害の男の都合のいい社会がつくられているではないか。
お金の話を読んでも、法律の話を聞いても、それぞれの道で活躍する権威者が言うことは同じである。
「自分さえよければ」の意識では日本は崩壊する。
他者を「愛する心」、それが人の全ての基本なのだと。