自分のしたことに向き合わなければはじまらない
「言葉悪いけどガラガラポンにして、もう一回ゼロからスタートできないかなと。」
自己愛性パーソナリティ障害の父は、今心療内科に通っている。
というか、通ってもらっている。家族不和を修復するために。
先生に出された問いに、父は冒頭の回答をした。
先生が父に投げかけた質問は
の3つだった。
考えるのが面倒になったのだろう。
父は頻繁にこうした言葉を言う。
「ぜんぶリセットしてやりなおしたい」
「ぜんぶチャラにしてゼロからスタートしたい」
「俺をぶち壊さないとダメだな」
表現はさまざまだけど、結局のところ都合の悪い現実から目を背けようとするのが父だ。
気持ちはわからないではない。
受け止められないほどの不都合な現実があると、「ぜんぶなかったことになればいいのに」という思いが浮かぶことはある。わたしにも。
だけど起きてしまったことをなかったことにはできない。
そんなことができるのは、架空の世界の中だけである。
昨日、たまたま録画リストにあった映画『記憶にございません』を見た。
国会で「記憶にございません」と言い放ち、立場を利用して私利私欲を満たしてきた総理が、国民から頭に石を投げつけられて倒れ、実際に記憶をなくしてしまう物語だ。
記憶と同時にしがらみもなくなった彼は、そこから本当にやりたかった政治を行い、冷めきった家族関係を修復していく。
まさに、ガラガラポンにしてゼロからスタートした、壮大なやり直しの物語だった。
映画を見終わって
父は、こんなイメージをもっているのかも。
と思った。
都合が良すぎる話だけど、たしかに、こんなやり直しができたなら悪くはない。
でもまてよ。
父は「チャラにしたい」と言っているんだった。
映画でさえ、チャラにはなっていない。記憶をなくす前の悪行の数々を、記憶を失った自分が自らの手で、すべて清算している。
結局、自分がしたことには向き合わざるをえないということだろう。
たとえ覚えていなくても。
架空の物語の中でさえ、現実をチャラにしてリセットすることはできない。
結局、映画の中の総理は、途中から記憶を取り戻していた。だけど、記憶をなくしたふりをしたまま改革を推し進めたのだ。
つまりそこには、「すべてをリセットしてやり直したい」という確固たる意志があったことになる。
それは逃げ腰ではなく、人生をリセットするために、自分のしてきたことすべてと向き合う覚悟を持って、本気で臨んだということだ。
何かを変えるにも変わるにも、現実をリセットするにも、まずは自分のしてきたことと向き合わなければならない。
どんなにつらい現実があろうとも、そこに、見るに堪えない自分がいようとも。
自分を変えたい、人生をリセットしたいと願う人がつまずくポイントはここにある。
リセットされたあとの明るい未来ばかりを思い描いて、リセットする作業がいかに大変かを想像できないのだ。
父のことだけど。