ちょうどいいわがままに必要なこと
フジテレビで土曜の早朝に放映されている『テレビ寺子屋』。
これを自動録画しているわたしは、気になったタイトルを見つけたら見るようにしている。
『ちょうどいいわがままという生き方』
久しぶりに、このタイトルが目に留まった。
講師は、医師で作家の鎌田實先生。
ご自身の著書『ちょうどいいわがまま』をもとにした話だった。
我慢は美徳が個人の選択の自由を奪っている
わたしたちは幼いころから、わがままはダメなものとして教わってきた。
我慢は美徳という考え方があり、空気を読むことを求められている。
ネガティブなイメージが付きまとうわがままを、ぐっとこらえて生きている人も多いだろう。
だけどその圧力が、個人の選択の自由を奪っている側面があるのだと、それゆえに日本は幸福度ランキングが低いのだと、鎌田先生は言う。
わがままの上に「ちょうどいい」をつけてみたらどうかと。
ちょうどいいわがままの指標
わがままを「ちょうどいい」程度に収めるのこそ難しい気もするけど、まとめるとこうだった。
わがままが嫌われるのは、人に迷惑がかかるからだ。
つまり「ちょうどいいわがまま」の指標は、人に迷惑と思われるかどうかということになる。
そしてそれは、自分が判断することではなく、相手が判断することだ。
児童文学者・松岡享子さんのちょうどいいわがまま
講演の中で鎌田先生は、ご自身が関わった人たちの「ちょうどいいわがまま」を事例として挙げていた。
その中で印象的だったのが、児童文学者の松岡 享子さんの話だった。
晩年、脳腫瘍を発症し、手術をせずに緩和ケア病棟に入ることを選択した松岡さんに対し、鎌田先生は「帰って、やり残したことがあったらしてもいいんじゃない?」と伝えたそうだ。
すると松岡さんは「帰れるんですか?」と目を輝かせたという。
そして最期の作品を書き上げたのだ。
緩和ケアをする上では、重要視される4つの痛みがあるという。
身体の痛み
心の痛み
社会的な痛み
霊的(スピリチュアル)な痛み
身体の痛みは医療の発達でケアが容易になっているが、2~4の痛みを取り除くのは簡単ではない。
ただ松岡さんの場合は、心がとても元気な人で、児童文学者でもある。鎌田先生は、「心の痛みと霊的な痛みに関しては自分で解決できるだろう」と思ったそうだ。
残るのは、社会的な痛み。
これは、やりたい仕事ができなくなったなど、心残りによる痛みだという。だから鎌田先生は、「やり残したことがあるならやってみたら?」と提案したのだ。
わたしはこの話を聞きながら、「それって、誰かに迷惑がかかるんじゃないのかな?」と思っていた。
病棟にいれば、医師や看護師がわざわざ外出して回診する必要がない。
自宅では、誰かにお世話をしてもらう必要がある。
人に迷惑をかけることになるのでは…と。
だけど話を聞きながら、はたと気が付いた。
協力してくれる人がいればいいのだと。
もっというと、協力したいと思ってくれる人に甘えればいいのだ。
松岡さんにとっての鎌田先生は、きっと「協力したいと思ってくれる人」だったのだろう。そばで支えてくれた娘さんも、快く協力してくれたのだと思う。
松岡さんの周りには、わがままを迷惑と思わず、協力したいと思ってくれる人がいたのだと、そう感じた。
松岡さんは、そうした人徳のある人だったのだろう。
大事なのは人のわがままも受け入れること
幸福度の要素のひとつと言われる「自己決定」。
日ごろから小さな自己決定をし続けることが、重要な局面で選択をするウォーミングアップになるという。
加えて、日ごろから人を大事にすることが、ちょうどいいわがままをしたいときの礎となるのだろう。
わがままを押さえ込み、人のわがままを非難するのではなく、相手のわがままを受け入れ自分もわがままをする。
人とそんな関係が作れたら、確かに幸福度が上がる気がする。