ピアサポーターになるまで 私の半生①
ピアサポーター 金子祐也
今日は私のこれまでの半生を話していきたいと思います。
私は神奈川県平塚市に生まれました。出生時特に問題はありませんでした。
3歳の時に空き地で幼馴染と遊んでいるとき、鉄の棒を幼馴染の額に当ててしまい、けがをさせてしまったことを今でも憶えています。これが最初の記憶です。
その他、幼稚園に入る前の記憶として残っているのが、家の階段の一番上から、頭から落ちてしまい、九死に一生を得たことです。理由は分かりませんが、足からではなく、何故か頭から階段を降りようとしたのです。
何故でしょうか。自分でも理解不能な行動です。こんなことがしょっちゅうで怪我がつきものでした。
幼稚園になってからも意味のわからない行動をしていました。くるくる回ったり、飛び回り走り回ったり、落ち着きなく、常に動いていました。幼稚園の友達をドロップキックした記憶もあります。
小学生になってからも落ち着きませんでした。友達が出来ず、一人でいることが多かったです。次第にいじめられるようになりました。先生にも常に怒られていた記憶があります。
一人でいることが多かったのです。
遠足では一人で大きなランチョンマットを広げて食べていました。給食の自由な席で食べれるときは必ず一人で給食を食べていました。誰も声をかけてくれなかったような気がします。
でも苦痛ではなかったです。その時はなんとも思っていなかったです。ある意味自由でした。
そんな中、唯一出来た友人が自閉症スペクトラム障害の友人でした。
その友人とは、喧嘩もしましたが、良き理解者で助け合って学校生活を乗り切りました。その友人とは今でも繋がりがあります。
当時の小学校は、みんなに合わせるのが美学で、協調性こそ正義でした。
その環境は私には苦痛でしかありません。
勉強も得意不得意がはっきり分かれていて、できない教科の時間は地獄でしかありません。先生の言っていることがわからないし、じっと座っていなければならないし、、、
友人とは色々な話をしました。友人と私は地理と歴史が好きで、よく地理と歴史の話をしたした。問題を出し合い、問題を自ら作るという遊びをしていました。
おかしな小学生ですよね。
昼休みに、周りはドッチボールや鬼ごっこ、野球やサッカーをしているのに、私とその友人は大学の社会科の問題集を解くという遊びをしていました。
そのため社会はいつも100点近い点数を取っていました。しかし、算数、数学が全くできず、常に0点近い点数を取っていました。
小学生のころ、学校でも仲間はずれにされたり物を隠されたり、机に落書きされたり、ひどいいじめがありましたが、家族でも色々ありました。
それでも不登校にはならず、学校には行っていました。あの時代だから不登校にならなかったのしれません。
続きはまた後日書きます。