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自由に生きるって

教師を辞めることを決断した。
今は休職中で、こうやって自由に言葉を紡ぎ綴ったり、好きなことを学んだりすることができている。

自由に、自分の思うままに
好きな場所で、好きな人と、好きな時間に、好きなことをして
生きていく。

知らない世界へ飛び乗ったあと、
怖い気持ちが自分を覆う。
なんだこの恐怖心は…。

たぶん、それは、
「人間の変えられない本能」のようなものなのだろう。
不安なのだろう。
知らない世界で生きていくことが。
まだ、自分を信用できていないのだろう。

そして、
本当に自由に生きていくことができるのだろうか。
私にそんな権利あるのだろうか。
みんなに迷惑をかけて今こうしているのに。

と思うときがある。

なんなら、
「自由に生きることなんて私には許されないだろう」
とまで思っているかもしれない。

こう思うと突如、

そうしてはいけないと、誰が決めた?
誰に許してもらえない?
自由に生きると罰せられる法律があるの?

と問う自分もあらわれる。


みんな、頑張っているんだから、私も頑張らないといけない。

みんな、苦しんで仕事へ行っているのだから、私は幸せな毎日を送ってはいけない。

みんな、そこそこ妥協して嫌なことも耐えて慣れようと努力しているのだから、私もそうしなければならない。

みんな、好きなことでは生きられないんだから、私も好きなことでは生きていけない。

だから、私のわがままは社会には通用しない。

いつからだろう。
こんなふうに、強制的に思考を回し、自分で自分を閉じ込めるようになったのは。

1番怖いのは、このようなことを自然と考えていると、相手にも同じことを求めていることに気付く。


だけど、今は、
少しずつだが感覚が変化している。


例えば、爆食いするインフルエンサーの動画を見て、ワクワクしたり、食欲をゆさぶられたりする。

その影響を受けて、自分も食べてみようと行動したり、パートナーに一緒にやってみない?と提案してみたりすることってあるかもしれない。

私たちは、インフルエンサーに影響を受けて、
なにかを感じて行動に移すことがある。
だが、インフルエンサーが強制的に何かを感じさせて、行動に移させているわけではない。

つまり、何らかの影響を与えたとしても、決断して行動するのは、その人自身だ。
影響という価値は、受け取り手によって違う。

そして、私が思うままに自由に生きたとしても、誰かを不幸にするということはあり得ない。

人は、みんな自分の考えで、価値を意味づけし、行動に移している。

幸せか、不幸か。
その決断をくだすのは、個人それぞれだ。

誰と一緒にいて、何を信じて、どんなことをして、どのような幸せを感じていくか。

それらを決めるのは、自分自身。

そこまで、理解していても、「自由に生きていくこと」が可能だと確信が持てないのは、恐れを感じているからなのかな。

知らない道への恐れ。

人は、自分を守るために、未知のこととなると、ことごとく言い訳を考える。

そこで、大事になるは、
いかに諦めないか。

自分が選んだこの道を正解にするために、
できるかどうかを考えるのではなく、
ただ、諦めないこと。

まだまだ、迷うことがある。
だけど、この不安や恐れとうまくやっていくためには、諦めず素直に行動していくだけ。

自由に生きるって、苦しい。
だけど、自由に生きるって、楽しくて最高。





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