見出し画像

生成AI芸術批評序説

ハルシネーション、イリュージョン、イマジネーション。

@kahua_is

Narures ネイチャーシリーズ 未発売作品≣≣≣≣≣✿≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣≣天空と地上の境界線をイメージした世界。 タイトル「雲の記憶」 Cloud Memory ​​​​​​​​​​​​​​​​ #AI #art #generativeart

♬ Deep Forest - Version 1992 - Deep Forest & Eric Mouquet & Michel Sanchez

目に見えること、目に見えないこと。
fake(偽物)とfact(事実)。
中世にあっては
Generative(生成的)とMagic(魔術)は同義で
今は厳密に区別されている
fakeとfactも、同じ意味あいを持つ
言葉だったそうだ。

現代にあって、
呪文はプロンプトと呼ばれている。
プロンプトとはことばである。

ことばは目に見えることの識別から始まった。
ことばの目に見えないことへの記述力が高まるにつれ
抽象的表現力を得るようになる。

目に見えないことを
目に見える文字にする、画像にする。

そのことが人の文章や絵画に
新しい地平をもたらす。

一方で、見えないことを、
わかる人とわからない人の間の
分断のようなものも生んでしまう。

近代となり

シュルレアリズムが登場したとき
それは本当に脅威的な存在だった。

一種のナイフ――現実に突きつけられた
非常に危険なマジックと同じレベルの
アートだった、という。

そのラディカルさをまるめていって
高尚な芸術として仕立て上げていく。
シュルレアリズムと命名され、
美術知識となり、教養となったとき
そのナイフの持つ危険さは、失われていった。

生成AIアートになぜ、
多くの人の反発と賛意が二分されるのか?
そのことのヒントは
Generative(生成的)と
Magic(魔術)は同義だった
中世にまで戻って考える必要がある。

一方で、人への問い掛けとしてのアートは
その違和感をアートという形式で提示してみせる。

1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表してから
はからずも100年が経過した。

シュルレアリズムのデペイズマンやコラージュなどの表現手法と、
それにまつわる思想や考え方が流通して以降、
コマーシャルな分野でも、それらは多く使われ消費されてもきた。

デペイズマン
シュルレアリストによって発掘されたロートレアモンの『マルドロールの歌英語版)』(1868年)の一節「解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い(のように美しい)」は、デペイズマン(異なった環境で生じる違和感、不安感、驚異)の例として挙げられることが多く、シュルレアリスムではデ・キリコマグリットエルンストの作品の特徴とされる[88]。一方で、ロシア・フォルマリズムシクロフスキーによって提唱された異化に近い概念でもあり[88]、ブルトンはこれを「客観的偶然フランス語版)」の概念として提唱した。すなわち、偶然による2つのものの接近・出会いによって「現実の中に潜む超現実が露呈し、不可思議(驚異)が現出する」瞬間である[89]

コラージュ
エルンストが《近づく思春期……(昴)》(1921年)など多くの作品で用いたコラージュの技法もこのような発想に基づいている。キュビスムのコラージュ(パピエ・コレ)とシュルレアリスムのコラージュの違いは、パピエ・コレでは、あらかじめ意図された視覚的効果があり、そのために複数の要素の組み合わせるのに対して、エルンストのコラージュは、あらかじめ意図されたものではなく、既存の印刷物写真を組み合わせることで、その偶然性によって生み出される驚きや詩的イメージが重要になることである[90]。エルンストは絵画としてだけでなく、コラージュ作品と小説を組み合わせて「ロマン・コラージュ(コラージュ小説)」として発表した[注 8]。こうしたエルンストのコラージュについてアラゴンは「挑戦する絵画」と題する評論を発表した[90]。パピエ・コレ、コラージュの発想から後にモンタージュアサンブラージュの技法が生まれることになる[91]

Wikipedia

上のWikipediaに書かれている解説を読んでいくと、生成AIが生み出すものに対する「驚き」についての、解説であるかのように思える記述が多々出てくる。

生成AIの内には、これまでの人類が生成した、文書や絵画が学習によって読み込まれている。それは人類の無意識として表出されない形の巨大なデータベースの大海のようなもの、と捉えてもいい。

この巨大な海に、プロンプトという呪文を投げかけると、ミョウバン液の中にタコ糸を垂らした時のように結晶化が起きる。
この現象は、「結晶成長」または「結晶化」と呼ばれ、タコ糸は「触媒(Catalyst)」の役割を果たす。
具体的には、タコ糸が結晶の成長のための「種結晶」として機能し、周囲の溶液中のミョウバンがその表面に付着して結晶化を促進する。

人類が生成してきた、文書や絵画に表出されてきた「見えるものと」「見えないもの」たちの海に、プロンプトが投入されると、それが撒き餌となって、それに関係するであろう、ことばや絵がAIの判断によって寄せられ、集まってくる。

そのようにして生成文書や生成絵画は、結晶化し生成される。

こうして100年を経て、
シュルレアリズムは日常的に目にするものになりつつある。

本物らしくなければ絵画じゃない、という事に対して、
抽象画の存在や現代アートのようなものもあるよと
知識として知ってはいても、
本物=リアルとの乖離を示されたときに、
人は生理的に反応をする。
このことは、シュルレアリズムが生まれた100年前も、
今も、そう変わりはしない。

安定した日常、平穏な日常、秩序によって整えられた現実。
既に認識していることを、今日も認識できたとき、心は騒がない。
デペイズマンも異化も、それが日常化すれば異化にはならない。
シュールだね、ということばが定着して以降、シュールは
シュールでもなんでもない。
シュール以前の「驚き」を得て、人は日常という奇跡を再発見する。

もっと現実に寄せてよ。
クライアントにそう言われてしまえば、
クリエイティブはそのように寄せるしかない。

生成AIは、
目に見えること、目に見えないこと。
その境目にあるものを、不意に浮かび上がらせることがある。

目に見えないからといって、
愛とか、自由とか、正義とか、好きといった感情とか、おいしい!
にいたるまで
目には見えないリアルを、人はいつも感じているはずだし、
切実を抱えている。

目に見えるリアルばかりに騙されてはならない。

ハルシネーションとイリュージョンとの間を
イマジネーションで紡ぎ
目に見えるものから、目に見えないものの深奥に
ことばという呪文を頼りに
シュール以前を求めるキャタリストとして
無意識の大海に ダイブしていくような
生成AI作品に出会うたび、そのような事を思わされている。

生成AIアートとは、
自身の手を動かして制作するものばかりではなく
人の無意識の深奥を感じて、ことばという釣り針で
作品という魚を得る、ということに近い。

それもアートになりうるという時代を
私たちはリアルタイムで生きている。

ことばという、頼りない釣り針には、
多数の人が求める鉄板の雑魚が無数に寄ってくる。

人が求める鉄板が、私の欲しい魚であるとは限らない。

ことばの釣り針に、どのような餌をつけて大海に垂らすと
どのような魚がやってきて、そのうち、
自身の求める魚も来るのだという
気長な釣り人のような態度と、
日々の果てしなき釣りの釣果との戯れの末に
生成AIが寄せようとする
多数の人が求める答え(もしそれをリアルというのならば)と
私が求める答えとの間に横たわっている差異を
認識していることが、この新しい時代のアーティストとしての
重要な資質の一つだと思う。

アートとは
わからないことと、わかることとの間に横たわる
紙一重を飛び越えたい。というものだけが持ちうる
情熱の一つの営みだと思うからだ。

伝わらないことを怖れず、生まれ落ちるものを提示する。

生まれ落ちたものも、
ことばではない、ひとつのことばだから
それと出会って人は、
古きことばに新しい意味を得て、驚いたり、
新しきことばに出会って、納得してみたりする。

そのように、ことばは常に、
他者と私との間の差異を知る/示す/示される、
大切なプラットフォームである。

ある日、伝わらなかったことばが、
ある瞬間、何かをきっかけとして伝わることによって、
受け手に「驚き」とか「気づき」とか「尊い」を
もたらすものになったりする。
アートが生まれる瞬間。

ことばに対する深い感受性ゆえに、
ことばになぜを問い、ことばを探している。
そのような者の放つことばは
私たちにも問い掛けてくる。
ことばの探求者のみが、
ことばの魔術師となりうる。

芸術大学を出て、アートとして作品を発表したから
アートになるものでもないだろう。

生成AIが寄せて出した答え。
多数の人が見たい答え。
私が見たかった答え。
この3つのズレを孕んだ、特異点にある答えに
ピンと来るものだけが、アーティストと呼ばれうる

生成AI時代のアートとは、
そのようなことばの海の深海から、
未だ見ぬ魚を求める営為であり、
魚の意味を飛び越えるハルシネーションにすら、
イマジネーションを持って遊べる人に
許された自由のまたの名でもある。

ハリー・ポッターで「ルーモス」と唱えれば
杖の先に光が灯る。

アーティストはロウソクや火、ハンドライトを
持っていなくとも
ルーマスということばを知っていればよい。

Magic(魔術)は、Generative(生成的)だから
杖の先に光を生成する。
アーティストは絵筆の使い手である必要はない。
とはいえ、ことばだけでは足りない。

その足りない何かを、見つけ得た者の前に
新しいルネサンスの幕は開き始めている。


いいなと思ったら応援しよう!