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24.10.19糸島記|絵の力

嘉永5年(1852年)旧暦の9月5日から辿る、エスノタイムマシン。
昨晩10月18日(金)、夜の四方山話でわかったこと。

平野友康さんのTeleportに先週金曜日から伺っています。
入ってすぐの大きなミーティングスペースの壁面上部に下のような絵が貼られています。この絵は寺山干拓潮止図(糸島市の文化財)のコピーで嘉永5年(1852年)9月5日(時は江戸だから勿論旧暦)早朝に行われた干拓工事の記録絵図です。

嘉永五年寺山干拓潮止図(糸島市の文化財)

これは平野友康さんが社長を務める「イトシマ株式会社」が事業主体として展開する「糸島サイエンス・ヴィレッジ(SVI)」構想に関わるメンバー全員にとって起点のシンボルとなっている絵。
だから、この絵を自社の原点として事務所に掲げています。

糸島市域の干拓(海辺開発)が始まったのは安土桃山時代。最も古くは豊臣秀吉が天正十五年(1587年)に九州平定後に筑前国(現在の福岡県の一部)を小早川隆景に与えた後の天正十八年 (1590年)から始まり何度かの干拓事業を経て、嘉永5年(1852年)旧暦9月5日の早朝に行われた雷山川下流の14期目の干拓事業が絵図として記録に残されています。この干拓事業は、当時の糸島地域の治水事業としては極めて重要な意味を持ち、多くの村から4000人もの人々が集まって行われたものでした。

干拓は、まず海中に土手や石垣を築く作業から始まります。干潮時の僅(わず)かな時間を利用して、一気に土俵をつき上げるという作業を繰り返し行いながら潮止堤防を造るのですが、これはとても困難な作業でした。

 例えば、嘉永開の工期中には、完成直前に潮止堤防が沈下してしまい、築き直しをしていたところを、今度は大風と高潮に見舞われ再び決壊してしまうなど、役人や出役した村人たちがガックリと肩を落としたであろう不測の事態も起きました。


 しかし、それらを乗り越えて、絵図にも描かれている「潮止め」と呼ばれる最終作業には、怡土・志摩郡併せて約四十以上の村々から四千人にものぼる人々が出役したといわれています。


 現在、嘉永開を含めた糸島地域の干拓地の多くは、糸島市内の農業を支える重要な地盤となっています。

志摩歴史資料館

「寺山干拓潮止」工事が行われた旧暦9月5日の頃といえば、二十四節気では白露の時節、六曜は先勝(せんしょう)の日です。

旧暦(太陰太陽暦)とは、月の運行(満ち欠け)を基本とする暦です。
暦は、時を数え、現在の日時を知るツールであり、人々の暮らしには今も欠かせません。月の満ち欠けを知ることで、漁業者は干潮と満潮を把握し、農業者は農暦とも呼ばれる二十四節気と併せて季節の訪れを機敏に察知し、その時季に適切な農耕作業を進めるためのツールとして暦を使っていました。

この時期は、朝晩の気温が下がり、昼間はまだ暑さが残るため、農作物の成長にとって重要で農家にとっては、稲刈りのタイミングを見計らう大切な時期、このように白露の頃は稲刈り前です。白露は毎年旧暦の9月7日頃から始まり、この時期には稲穂が黄金色に色づき、収穫の準備がなされます。そして白露の頃から霜降(10月23日頃)の頃を目安に稲刈りは行われていました。

つまり旧暦9月5日に4000人規模の人を動員するには、農民が忙しくなる収穫の時期を避け、稲刈り前の白露の時期を選んだ、ということが見てとれます。白露は、秋の訪れを感じさせる重要な節気であり、自然界の変化や農業活動においても大きな意味を持っています。

白露=white dewという言葉が含まれたプロンプトで生成された画像その1  by KAHUA
白露=white dewという言葉が含まれたプロンプトで生成された画像その2  by KAHUA

古の人は朝の光に白く輝く露を「白露」と表現しました。
白露は、露の美称「しらつゆ」のことで、秋の季語でもあります。

「露華(ろか)」「露珠(ろしゅ)」「銀露(ぎんろ)」「月露(げつろ)」「月の雫」などの言葉はきらきらと輝く露の美しさを表現した言葉です。
また、「玉露」も本来、露を美しい玉に見立てた言葉です。

映画『黄泉がえり』の主題歌にもなった「月のしずく」は、

RUIこと柴咲コウが歌う曲ですが、美しい言葉のしらべによる歌詞で綴られています。「月の雫」は白露の頃を描いており、下弦の月が浮かぶ夜に、今は亡き人への思慕の想いを歌っています。下弦の月の満ち欠けも、旧暦ではいつ頃かが分かります。1852年は旧暦9月22日の夜空に下弦の月が輝きました。9月5日に干拓に成功し、2週間とちょっとが経過した22日の下弦の月の頃、もしこの歌があったとしたら多くの困難があったとされる「寺山干拓潮止」工事の人柱となった人への思慕の思いの歌のように聞こえたでしょう。

この記事を仕上げている2024年10月24日は旧暦9月22日。
そう下弦の月の日です。潮止工事のあった旧暦9月5日は2024年10月7日。
はからずも訪問した今月は寺山干拓潮止月間でした。
つまりは、この季節のような頃に、この工事は行われたんだと同じ時節の空気感を感じながら感慨深くこの記事を書いています。

さて「寺山干拓潮止図」の工事の時期のことに戻ります。
干拓作業を行う重要な事柄として海の水位(潮位)が引いて足下がすくわれなくなる大潮の時期に行うことが必須でした。月に二度ほど訪れる大潮は、月と太陽が地球に対してほぼ一直線に並ぶ新月や満月の前後数日間に発生します。潮が引いて足場を確保できる時間が長く、一気に作業のできるタイミングの日。

旧暦での月の始まりは朔の日(新月のこと)、と決まっています。朔日と書いて「ついたち」と呼びます。だから毎月1日のことを「ついたち」と今も呼びます。旧暦9月1日は新月大潮の日ですが、あいにく先負で縁起が悪いと。

15日は満月大潮の日で大安でしたが、9月9日には秋の土用がありました。
「土用には土を掘り返してはいけない」という言い伝えもあり、土用を越してからの工事は憚(はばか)られたのでしょう。

そのようなこともあり大潮前後の暦をみて、白露の時期の朝、干潮時に実施する大仕事にふさわしい日として先勝の日を選んだのだと思います。
先勝の日とは、特に午前中に行動を起こすことが推奨される吉日でした。

さて、次には早朝と記載があります。旧暦は月の運行(満ち欠け)を基本としますので、今年2024年の旧暦9月5日の頃を調べれば、同日の干潮時間は、ほぼ同じ時間と考えられます。

ということで今年は10月7日が旧暦9月5日の日でした。
その日の福岡県糸島市の干潮と満潮の時間は、
干潮:03:55 満潮:10:49。

ですから、当時も明け方3〜4時頃から作業が始まり、5~6時までには作業を終えたのではないかと想像されます。

更に干支などを踏まえていくと1852年旧暦9月5日の干支は
年: 庚寅(かのえのとら)の年
月: 戊寅(つちのえのとら)の月
日: 戊午(つちのえうま)の日
ということで1852年の旧暦9月5日は、庚寅年の戊寅月の戊午日にあたります。

寅の刻は、午前3時から午前5時位までの時間帯を指し、この時間帯は特に金運や開運に関連する行動が推奨されることが多いとされています。

4時からの作業であれば、それより前に集合準備するはずですから、寅の刻(とらのこく)の前。丑の刻(うしのこく)の集合だったでしょう。

丑の刻は午前1時から午前3時位までの時間帯を指します。

具体的には、丑の刻の中でも特に午前2時から午前2時30分の間は「丑三つ時」と呼ばれ、最も暗い時間帯とされ、日本の伝承の物語でよく登場する「泣く子も黙る丑三つ時」とか「草木も眠る丑三つ時」といった最も静まり返った時間帯として表現されてきました。
旧暦9月5日、午前零時をすぎ午前2時から午前2時30分ころの「丑三つ時」か午前2時30分から午前3時ころの「丑四つ時」に集合がかけられ、段取り準備とともに寅の刻決行のお触れが出されたと想像されます。

庚寅年の戊寅月の戊午日の先勝の日を選び、午前中の行動が成否の鍵を握る日の干潮時である寅の刻の決行。この時間帯は開運の鍵を握る推奨時ですから、月、日、時、すべてにおいて縁起の良い日取りとし、農民の負担の少ない白露の頃を選ぶ。

古の人々の物事を起こすに綿密な準備をなし、日時を選び、練りに練った上での実行計画であったことが、この暦の日時からも、この事業の成功を祈る並々ならぬ熱意を、今を生きる私達に伝えてくるのです。

そして、この一大事業は、ついに無事成功します。

その事業成功の喜びたるや、想像を絶するほどの喜びの想い溢れ、歓喜に喜ぶ民の姿が浮かんできます。その喜びあってこそ、このように、この事業の成功譚を絵図に遺したのでしょう。

寺山干拓潮止図は上空から地上を見下ろす俯瞰図として描かれています。古くから日本絵画の伝統的な画法である俯瞰視点の絵は、地形を表すのに最適な技法として、古くから名所や神社仏閣を描く際に使われてきました。〈鳥の眼〉によるこの絵は、地上で見たスケッチを組み立てて構成されるとされ、〈鳥の眼〉を持つ絵師に、かなりの高額の予算をかけて描かれたと思われます。

嘉永五年寺山干拓潮止図(糸島市の文化財)

1590年小早川隆景の時代から始まり、14期262年をかけて、この地を豊かにしてきた干拓事業史上でも困難な工程である潮止は、堤防に潮汐の出入口を設け、干潮時に一気に海水を締め切る工法です。
この方法により、干拓地の水位を管理し、農地としての利用が可能になります。この困難な潮止を幾多の困難を乗り越えて成し遂げた当時の寺山68戸の住民の歓喜が、この絵図の存在があるからこそ残され伝わってきます。

絵は、このように172年の時を経てもなお、私達にこれらの事を伝えます。

そして、この絵図が完成する前、この工事計画を全地域の人々に伝えるための事業計画図もありました。それら計画図があったから、地域住民4000人が一丸となって参加するための意志疎通を図ることができました。

絵という指標があるから、それを元に人は話をしたり、議論したり、自分の考えを述べたりできます。

そう言葉よりも豊かに、絵は時に「伝える」力を持ちます。

未来の糸島を古の人が、その計画図によって思いを馳せ、未来の肥沃な農地となることを思い描きながら寺山干拓潮止に臨んでいったのでしょう。

SVIまちづくりの学校2024で、KAHUA(かふあ)さんを招いての「絵からまちづくり」を考えてみるのは、寺山干拓潮止図を起点とする糸島の歴史を踏まえるとき、そのまちづくりにふさわしい方法なのかも知れません。

古の人から絵として託され、今も伝わる「寺山干拓潮止」の干拓事業。
その地に住まう人たちの未来像を、絵が「伝える」力を信じて、近くの人たちと話してみる。まずは、そこから始めてみてもよいかも知れません。

生成AIのまちづくりを学ぶ「SVIまちづくり学校2024」2回目は10月20日(日)開催
AIアートディレクターのKAHUA(かふあ)さんが画像生成AIの講義を行いエスノグラフィー的手法を使った10年後のSVIをみんなで生成してみました

「SVIまちづくり学校2024」2回目を講師のKAHUA(かふあ)さんと振り返るポッドキャストTeleport Radio。すぐに聞くなら以下より聞くことができます。

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