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歌は下手やけど、59歳「シンガーソングライター」って言いたい。

私の趣味、というかライフワーク

私は作曲家です。格好良く言えば「シンガーソングライター」。歌は下手やけど「シンガーソングライター」って言いたい。

小学生の頃から、何かと勝手にメロディを口ずさむのが癖で、中学2年生の時、叔父さんのお下がりでクラシックギターをもらったことが切っ掛けで、歌謡曲やフォークソングをバシャバシャ音を立てて歌ってた。

特にお気に入りは、チューリップ(財津和夫)でレコードや楽譜集を集めては、同じくバシャバシャやっていた。その影響でビートルズも聴いたが、結局チューリップだった。

小学生のアイドル「南沙織」

ギターを持つ前の大ファンは南沙織です。レコード買ってました。CD時代になって最初に買ったのが「南沙織ベストアルバム」。因みに今でもウォークマンで聴いています。いいんですよ、和製ロッカー感のあるアイドルだったです。

小学3年生の時街のデパートに、なんと南沙織が来たのです。そのための入場券をゲットするには「○○円以上のお買いもでー」母は必至でお買い物(涙涙の子ども思い)しかし私は後ろの方でただ見とれていました。コンサートが終わってサイン会では気が弱く他のファンに並ばれてもらえません。母が私の腕をつかんでツカツカッと前に出て「さっきからこの子サインを待っているんですぅ~。」おかげで憧れのサインをもらうことが出来ました。

トランスジェンダーの私は今、南沙織の髪型にしています。憎っくきは篠山紀信。彼女を写真のモデルから嫁にしてしまった。今でも憎い!(憎!)

思春期はチューリップ一色

中学になって、憎き篠山を忘れるために?私はチューリップが性に合って友達にピアノ伴奏を教わって、放課後「心の旅」を練習していました。

勿論、小学生・中学生の頃は歌謡番組三昧だったですから、色々な歌手の曲は聞いていましたし雑誌も買っていました。でも、演奏はチューリップでした。「あ~だから今夜だけは、君を抱いていたい。あ~明日の今頃は僕は汽車の中~♪」チューリップがデビューしたときは福岡県の博多から東京へは新幹線だったけど、恋の歌は何故だか「汽車」になっとるとバイ。

チューリップのコンサートを初めて観に行った大阪厚生年金会館

中学3年生、私は新聞の切り抜きを持って遥々高槻市(すいません地元の話で "(-""-)")から初めての地下鉄四つ橋線(またまた地元です"(-""-)")乗って行きましたよー。大阪厚生年金会館大ホールです。もう都会っ子気分です。ホールの周りは女性ファン一色、そんな光景に出くわすとは思っておらず、たじろぎました。

少年Aは周りの女性ファンの間(に入れるわけなかろうがー!)の端っこに行って当日券を買い最上階へ。もうドキドキです。座っても左右前後に女性で囲まれ、これは「未知との遭遇」(これも古い。今の子知らん映画。)ですよ。「ビーー」ベルが鳴りいよいよ始まりだ、っと思ったらアナウンスで「あと5分で開演いたします。ロビーに・・・」(なんだよ緊張してるのにー)

「ビー―」観客席のライトが消えていきます。小さい声の「キャー」があっちこっちで。緞帳が開いた瞬間!照明の閃光とともに大音量が鳴りだし会場中は「ギャー!キャー!キャー!」

しかし私は何故か冷静に暗がりで「1曲目は夢中さ君に」と書いていきます。「キャー!キャー!」、「2曲目は新しい地球をつくれ」と、そこで財津和夫が挨拶をします。「財津さーん」「安部さーん」「姫野さーん」財津さんのMCが聞こえない!っちゅうねん。

(すいません、ファンしか知らない曲をづらづら書くつもりはありませんので、こんな感じです。)
何故、ノートに曲の順番やどこでMCが入ってやら書くか?そりゃあ、決まっちょりますがな、私もアーティストになるための分析でしょうが~。
そりゃ、女の子に持てますもん。こりゃ将来はアーティストになるしかないですがな!

作曲とピアノ人生の始まり

帰宅した私は早速レコードを聴いたりギターを弾いたり、ウキウキです。母上には「凄かったよー、女の園よ」(チューリップ違うんか~い)と晩御飯も早々に、それ以来、更にチューリップのファンになり、放課後の音楽室(音楽室には婆がいるが、あっ音楽の先生のことです)無理やり「少しだけよ」という手からピアノの鍵を抜き取って「あーだから♪~」

アーティストになるためにはまず条件、容姿端麗(ブッブー!)は無理でしたので作曲するしかないと思い、家ではギターと作詞、学校ではピアノの練習、授業中は机に上に鍵盤書いてコードを覚え、音楽三昧。
あっ!大事なことを忘れていました。歌です。財津さんのような甘い声が出ないといけんのです。私は生まれて初めて自分の歌声をレコードに合わせて録音しました。おっいい感じとテープを再生したらガビガビガビーーん!!
です。なっなっ何と下手な歌が流れてきました。普段歌ってたらわからないもんですが、あーショックです。私は財津さんにはなれない(涙)

「あーーショック!」

仕方なく私はバックコーラスでベースとピアノをやるようなことになっていきます。それなら胡麻化しきくかな、って思うしかなかったです。

高校生になると、色々なバンドに誘われるようになりました。なんせ男性でピアノ弾く人間って中々探しても居なかったので私に白羽の矢が立ったのです。ですのでハードロック、プログレシブロック、ウエストコースト、ブルース、ポップス、フォークソング等、お陰様でプレイヤーとしての力が付いたのはそんな事が重なり、文化祭やラジオ放送等にも出る機会ができステージパフォーマンスもソコソコ評判でした。

400人の観衆の前でワンマンライヴ

高校三年生、一様受験生です。あっそうそう、私、中学生から陸上部に入っていたんですけど体壊してしまい、合唱部に入部したのです。理由はピアノが練習できることと発声を一から鍛えることが出来る、つまり歌が上手くなる、思ったからです。これでボーカルは鍛えられましたけどソロを取れるほどまでには残念ながら行きませんでした。

そんな受験生の私に和歌山県の高校だったのですが、キーボードのオファーがありました。和歌山では通名なポップス&フォークのトリオだったのですけど、バンドを作りたいということでお誘いを受けました。
またボーカルが学校の先生で女子高なので、文化祭に呼ばれたときは「キャー、キャー」、そうです、中学生の時に夢見た光景の中に光り輝いていたのです。和歌山の市民ホールでは400人動員のコンサートもやりました。モテました。うふふっ(特にいい思い出はありませんが)

大学生になっても少し参加してたのですけど3回生ぐらいから、自分のバンドで自分のオリジナル曲をライヴや文化祭で演奏したりが忙しくなって、それと和歌山から大阪に引っ越ししたのでちょっと無理がありましたので。モテ期は終了。

社会人になってから、今まで。

音楽でプロになるか趣味にするかの選択はあっさりでしたが、夢を追うことはしませんでした。ただ高校生くらいからの作曲数は100曲くらいはありましたね。披露してない曲が多いですけど、コンテストに落ちたりもしています。ヤマハの方にデモを聴いてもらったことがありまし。「いいじゃないですか!情熱的でいいですよ。これ誰ですか?」「私です、初恋って曲ですが、彼に振られても降られても、また出会いがあればいつかきっと結ばれる、っていう歌です。」「そうですか~、いいですね~。でもー、歳がねえー。」(年が若かったら行けたんかい)。実はそうだったんです。若かったらヤマハでプロデュースしてもらえるのですが、私は30歳を超えていたので、既に完成されていて残念ですが、と言われました。

でも、正直嬉しかったです。その業界の方に評価してもらったのですから、それから、約30年、環境に変化があったので、今のSDGsの活動の合間にボチボチはじめようか、と思っています。59歳、夢はまだまだ続きます。

(瑚心すくい)

是非、サポートよろしくお願いいたします。日々自己研鑽し学びの本の購入と色んな団体「盲導犬協会」「国境なき医師団」等への寄付の資金にもしたいと思っています。お礼は更なる良質な記事を書きますのでよろしくお願いいたします。