こころのかくれんぼ 7 【目で見える姿のその先に】
先日「やっとできたこと」として、外観に障害やコンプレックスを持ちながら生きている方たちのエピソードに触れることができた…と綴った。
手に取った本のひとつ「顔とトラウマ」の中で、顔にあざを持つフリーライターの石井さんがこのように述べていた。
何が美しくて、何が醜いのか。
それは定義があるようで無いようでもあり、やっぱりあるような気もする。
実際にそれぞれが持つ価値観や常識を超えた、いわゆる「普通ではない」姿形をもつ人に出会った時というのは、瞬間的に本能的に驚いたり、慄いたりするものだと思うから。それはきっと「美しい」基準から外れたものに触れたということなのだろう。
雲間の隙間から差し込む幻想的な光。満開の桜の花が散りゆく姿。
自然の姿を目にしたとき「この色合いの重なりが絶妙だから素晴らしい」とか「咲いている花と散りゆく花びらの比率と構図が良い」など思考を超えて、はっと瞬間的に起きる「美しい」と思うその感覚が、自分では操作しようが無いのと同じように「醜い」という感情も抑えようがないのだと思う。
何かを・誰かを「醜い」という感覚で捉えた、その正直すぎる瞬間は相手を傷つけてしまうのと同時に、そんな感情を覚えてしまった自分自身をも責めてしまうこともあると、私は感じている。
だから「思ってはいけない。感じてはいけない」と道徳の教科書のように安易に言いたくはないし、言えるものではないと思っているのだ。
辛いのは「思われた自分」だけではない。
「思ってしまった相手」にも、目を向けることが必要なのではないかな。
お互いに痛みを感じているかもしれないのだから。
驚いた。驚かれた。
その正直な感情の交差から始まっていい。
それは、出会った瞬間の最初の一歩に過ぎないのだから。
その先はお互いの想いによって、関係は変化し続けていくものだろう。
自分を受け入れてほしいという「要求」を前提として、相手への過剰な理解や受容の期待を心に抱いた関係の始まり方は、出来ればしたくはない。
それは相手を試すことでもあるし、個と個の対等な関係をゆがませてしまい、いつか関係が失われるかもしれないという微かな怯えも含まれているようで、常に不安定で自分が惨めになってしまいそうな気がするからだ。
本当の信頼関係って、そんなものでは無いはずだ。
見た目にびっくりしたその先には、その人の中に包まれている本質部分の「その人らしさ」が、いつか必ず現れてくると私は思っている。
皮膚や姿形という見た目の瞬間的な反応から少し遅れて、滲み出る生き方の姿勢やたたずまいの方が、遥かに深く伝わっていくのだろうと思うのだ。
実際に、人の何に惹かれるかと尋ねられたら、単なる容姿ではなく生き様からあふれるエネルギーのようなものに深く心動かされることが多い気がする。そういう意味でも、きっと全ては自分次第なのだろう。
「この身体と、どのように向き合って生きていけばよいのか」
「この身体は、私に何を学べと言っているのだろうか」
病名を告知された18歳の夜、未来が不安でしかなくて押しつぶされそうで、ひとりで泣いていた自分を時々思い出す。
大丈夫、生きてるよ。
素敵な人にも、沢山出会えているよ。
傷つけられるのが怖くて何もしなかったら、小さく閉じた自分の世界から出られないって、だいぶ遅くなったけど心の底から思えているよ。
苦しい時って、つい「誰かのために」とか「社会のために」とか、外にむけて自分を役立てることで落ち着かせようとしがちなのだけれど。
その前に、まずは自分を微笑ませることが大切なのだろうと思う。
過去の私が今の私を見て、安心してくれるような生き方を。
あぁ良かった、と心から笑ってくれる生き方を。
それが、私にとっての美しさのひとつなのかもしれない。