30代の忘れ物#1
最近、どうにも見落としやうっかりミスが多い。
私はよく仕事の作業メモを残しながら作業をしているのですが、実際仕事を始める時そのメモを見ながら進めて完了した後に、よく確認したつもりでも、ミスが見つかることがある。
多分無駄な動きや手順が多すぎて本当に大切な部分が抜け落ち、簡単なミスにつながってしまうのでしょう。
過去の自分が未来の私にくれた教訓は一つや二つじゃない。それらをまとめてノートにまとめる癖をつけています。それでも、いざと言う時その情報を思い出したり引き出したり出来なければ、やはりそのメモを活用できていないということ。
学生時代はひたすら、ノートに書いて書いて書いて、脳に焼きつけるように勉強をしていたなぁと。あの頃は繰り返し、反復することが習慣だったから(習慣化させるような日常)だったから、色々身についたのかな。と
いまは、仕事の毎年の繰り返しをやってはいるけど、何故か日々の中で本来"積み上がっていく"はずの記憶が、習慣が、すこしずつジェンガのように足元あたりからスカスカに抜け落ちていく感覚があり、...いつ崩れても、って状態になっている気がします。皆さんはどうでしょう。
歳をとるってこういう事?なんてよぎったり。
周りを見れば、皆どうしてあんなにも身に付くのかと不思議なくらい、周囲がどんどんステップアップしていくのをうらやましげに眺めてしまいます。自分だけこのもやもやに呑まれて、取り残されていくのではという感覚。
人生とは、必死に手を動かす事で、流れるプールのように浮かんで、あとは何もせずとも前進していくあの感覚なのだと思っていたけど、違った。
必死にもがく事を止めたら止めた分だけ後ろに流されていく。プールの水が押し寄せてくる方向は、後ろからではなく前からなのだと。
水流に逆らって激流のなかをかき分けて前に進もうとする姿が、巻き上げた水の粒に反射するまばゆい光のごとく、美しく目に映るのではないかと。。そう考えるとすべてに納得がいく気がしました。私はいつからあんな風に、泳いでみることを諦めてしまったんだろうって。
「歳をとる」ことは、自動であたえられる訪れるのでは無い。(もちろん何もしなくても体は衰えるけど)老いる、とか歳をとる、とかはきっと努力し続けた者のに与えられる「勲章」なんだと。
周りが進んで見えるのは、ずっと腕を動かして「人生の逆流」に向かって努力している人を、立ち止まっている自分の側からただ眺めてるからそう見えるだけのだと。
「進んでいる」ように見える周りの人の命のきらめきを見て、今は自分の劣等感を燃料に進まなければならないと。みんなきっと今に負けないように「負けず嫌い」に頑張ってるだけだと。負けず嫌いは性格ではなく、きっと今を輝かせて生きる為の手段なんだ。
それなら
今より1歩2歩先へ行こうとするのではなく、今を必死にもがき続ける選択を今すぐに選べば、きっと少し先の未来はあの美しい光を纏って、生きられるかもしれない。
自分以外の眩しさに、心崩れることなく 生きられるかもしれない。
そんなことを思いました。
MARu。