悪漢①

 東京の隣県との境におよそ東京23区内とは思えぬ程長閑(のどか)な場所がございます。
 大きな川が流れておりまして川っぺりが3~4m程幅の草地。そこからいきなり5m程の高さの土手が持ち上がって横幅4mの遊歩道になっている。
 川を横断する形でJR貨物列車専用の赤茶けた鉄橋が通っておりまして、その下端が遊歩道から3mあるか無いかの高さ。
 その鉄橋の直下、川っぺりにベニア板とブルーシートで形成された小屋が建っておりまして住んで居りますのが……仮にAさんとしておきましょうか。

 Aさんの日常は毎朝3時頃から自転車を漕いで周辺の自動販売機やらゴミ集積場を廻って空き缶を収集して廻り、昼間にそれをアルミ缶とそれ以外に分別しつつコンパクトに潰して袋に詰め、ある程度まとまった分量になった所で夜に顔馴染みの廃品業者に引き取って貰って収入を得る。
 そんな暮らしに甘んじながらもAさん、いつか時期が来たら一般的な普通の暮らしというやつに戻ろう、と虎視眈々と時機を伺っていたんであります。

 もうじき長雨の季節に入ろうとする直前のとある土曜日の夜の事。
 廃品業者の所へ行かんと自転車を遊歩道まで押し上げ、後からアルミ缶の潰したのがギッシリ詰まった袋を三つ。引き摺るように上げますと言うと二つを自転車の荷台に載せ工事用の“虎ロープ”でガラッガラに縛り上げて固定し、残り一つは前カゴに、当然中に入るという嵩ではありませんで載せるだけ。それを虎ロープで縛り上げていよいよ出発。
 分量もさる事ながら、一つ一つ丁寧に洗ってから潰していた事が功を奏して思ったよりも高値で買い取って貰えたんだそうで。
 Aさん、上機嫌で帰宅途中にあるコンビニに立ち寄りますと言うとカップ酒一本と鮭弁当を買求めて帰途についた。
 遊歩道を鉄橋から10m程手前の辺りまで進んで自転車を止めるのはいつもの事なんだが今日はいつもと違う点が一つ。
 自転車と鉄橋の中間辺りの位置にスーツ姿の男が一人、遊歩道の砂利の上で大の字になって寝て居ります。
 実はその男、Aさんが出かける準備を始めた頃からそうやって寝転んでいたんですがそれからかれこれ二時間近くは経っている。
 『まぁ土曜日の夜なんだし大方羽目を外して飲み過ぎちまったんだろう』
 Aさんはそう呆れながら自転車の前カゴから弁当入りのコンビニ袋を取り出しますと土手をゆっくりと下りて我が家へと持ち帰り、それから今度は自転車を……と思ったが、妙に男の事が気になった。
 ズボンのポケットに忍ばせていたカップ酒の蓋を開けて三分の一くらいをグイッと流し込む。数日振りのアルコールが喉から胃にかけてをカァーッと焼いて意識がフワリと軽くなる感覚がする。
 相変わらず男は動かない。
 寝ているなら寝返りを打つとか、そこまででなくても頭を動かすとか手指を動かすとかしそうなもんだがそれもない。見た感じ、全く微動だにしていないように思えた。

 ゴクリッ

 Aさん、残りを一気に飲み干すと空いた瓶を自転車の前カゴに放り投げ、男の所に用心深く近付いた。始めは遠巻きに。
 おかしい
 酔って寝ているのなら鼾なり寝言、寝息が聞こえても良さそうなもんだがそれもない。ましてや胸から腹、呼吸している事を示す上下動を全くしていない。
 そんな“酔い寝”があるのか?
 首を傾げながら更に近付く。もし今不意に起き上がられて咎め立てはれたら申し開きなと利かない距離。

 まさか

 この近さになってまで、男の息遣いを感じない。鉄橋テッペンに取り付けられた水銀灯に照らされてか男の左手首に巻き付いた時計がキラキラと光っていた。
 見る限り外傷は無い。思い返してみても男がここに倒れたであろうその頃に争うような声や物音を聞いた覚えもなかった。
 「おい、ちょっと」
 最終確認とばかりに白々しく声をかけ身体を揺すってみる。返事どころか反応すらかえって来ない。

 と、揺すった拍子に男のジャケットがはだけて左胸ポケットの異様な膨らみが見えた。

 男の顔色を窺いながらおそるおそるポケットから中身を取り出す。まるで卵を飲み込んだ蛇のように下品な膨らみ方の黒革財布。
 膨らみの正体は札入れに詰まった一万円札の束であった。震える手で抜き取り数えてみるとざっと五十枚は下らない。
 頭の中の血が一気にスーッと退いていく感覚にかられながら、Aさんは思ったそうです。

 “時機”が来た

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