区別と差別の境目
オリンピックの女子ボクシングに於いて“元男性”との対戦で『身の危険』を察知した女子選手が開始46秒で棄権する、という事態となりましたがね。
まぁ、これこそ“多様性の闇深さ”だと思うんですわ。
精神面で生まれながらに女性だからと言っても生物学上は男性として生まれおりますから筋肉量が絶対的に違う訳で、ボクシングを始めとする『コンタクトスポーツ』に於いていくら体重が同じだとしてもこの差は絶望的とも言えます。
IOCは現在、これを無視して多様性を受け入れとる訳ですが、じゃあそもそも男女を別種目としているのは何故だ?精神面のみで男女を分けとるのか?という話になるんであります。
まぁ、コンタクトスポーツに限りませんわね。
陸上にしろ水泳にしろ、現行の区分けで競技が行われる限り勝敗にしろ記録にしろ「男女別種目にしている意味とは?」という話になってしまうのではありますまいか?
心と身体の性が一致しない人はスポーツをしてはいけない、アスリートとして高みを目指してはいけない、と言っているのではないのです。
生物学上男性の肉体を持った人と生まれながらに女性の肉体を持った人が、精神的には同じ“女性”だからと言って『同じ土俵に立つ』のが果たして【平等】なのか?という話です。
競技というのは男女の別は勿論体重や、武道武術に於ける技量差…道着で締めている帯の色に象徴されますが…を平等に揃える事で成り立っています。
ちなみに禁止薬物である筋肉増強剤が禁じられているのは使用者の健康に著しく害があることもさる事ながら、筋肉の量や質が変わる事で対戦相手との平等が担保されなくなり、相手の生命すら脅かしてしまう危険性が高まるから、であります。
そう考えてみると、生物学上男性の肉体持つ選手と生物学上女性の選手が「心は女性だから」の一点突破で同じ土俵に上げてしまう事がどれだけ危険性を孕んでいる事か。
多様性を認める、差別を無くす、という美名の下で平等性の担保がおざなりにされるなら、それはもはや『平和の祭典』の看板を下げるしか無いんじゃありませんかね?