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リフレクティングジャーニー「応答」

今回は、一般社団法人オープンダイアローグ・アプローチ研究会FLATの理事としての参加した「多声性を旅しよう〜ゆっくり対話するリフレクティング・ジャーニー」の振り返りと私にとってとても大きな気づきが得られたことについて書いてみようと思います。

リフレクティング・ジャーニーはオープンダイアローグについて学ぶ過程で説明として、理解を助ける伏線として引用される文献や言葉そのものに焦点をあて、その文献や言葉の背景や周辺にあるものについて話題提供しつつ、対話を通して、参加者が声を重ねることによって学び、考え、気づき合う時間です。

4月3日(火)はダイアローグ哲学を支える位置にいるようなロシアの思想家ミハエル・バフチンの応答性について取り上げられました。

ミハエル・バフチンの対話についての思索においても、応答性ということが中心的位置を占めている。

「言葉にとって(ということは、つまり人間にとって)応答の欠如ほど恐ろしいものはない」
「聴かれるということそのものが、既に対話的関係なのである」

と彼は指摘している。

オープンダイアローグ
ヤーコ・セイックラ/トム・エーリク・アーンキル(著),高木俊介/岡田愛(翻訳)

話題提供の中で「応答」と「反応」の違いについても触れられ、「応答する」ってどういうことなんだろう?どんな体験?何が大切?などゆっくり深く考え、湧いてくる言葉を場に置き、味わい味わわれ、また声が重ねられてゆく・・・

「応答」とは・・・これが正解!とか、こうすればいいとか、こうすべき!とかはなくて、話し手の尊厳を大切にし、敬意を持って応じる姿勢をもったその人を感じられるもの、なのではないか?

「応答」とは、はなされた言葉、受け取ったものを聞き手(受けた人)が自身の体内をくぐらせて、そこから出されるもの、その「間」や「あわい」を含み放たれるもの

たっぷり、ゆっくり、進行役がまさに間を守る番人であるかのように感じられ、私自身もそこに身を委ねていると、これまでずっと自分が語ってきたことが「応答」を求めてここまで導かれてきた経験だったのだなあという深い気づきが!

それはそもそも、なぜ私が「対話」について学び始めたのか?というきっかけのエピソードに関して。

私が地域おこし協力隊という立場で高校魅力化プロジェクトに携わり、高校生と関わっていた時、高校卒業後の進路について、どんな風になりたいかとか、やりたいこととか、いわゆる進路相談に応じる場面で、高校生から語られることが面白くなかった。その子自身が感じられなくて、あなたはどうしたいのか?が感じられず、見えてこない・・・・

それって、先生が言ってたことだよね?とか親御さんに言われていることだよね?みたいなことが多くて、その子の本当の声が聞こえない・・・・
どうすれば、その子の声を聞くことができるんだろうか?そんなモヤモヤから「対話」に関するあれこれ、哲学対話やらインタビューや質問についてやら文化人類学周辺のことやら学ぶ中で「オープンダイアローグ」にたどり着いた経緯があります。

そうか、私が求めていたのは「その人らしさ」が感じられる「応答」だったのかも知れない。高校生らは私の問いかけに反応してくれたし、回答してくれたけれど、「応答」だとは感じられなかった・・・・

その人の内側から出された言葉、他の誰でもない「あなた」が語る言葉、そういうものに出会いたいと私は望んでいるんだなと気づくことができ、とてもメモリアルな体験となりました。

他にも「応答性」から派生して「aboutonessとwithiness」についてや、心地よくない、耳障りの悪い応答の話題から「対等性」について、また「応答」はその人自身を通って出てくるもので予測できないからこその質感にも話が及び「不確実の耐性」についても言及されるなど、今後も取り上げていきたいテーマだと分かち合いました。

「応答」と見せかけた別のもの、、、、についての声も出され、まだまだ続くよこの旅は〜という感覚で、次回以降も楽しみにしているところです。

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