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熊楠の知の探求から 学びを問いなおす 臨床哲学者・西川勝さん、熊楠を語る【前編】

臨床哲学者・西川勝さん

 博物学者・南方熊楠は、粘菌の研究、民俗学、語学など多分野で偉業を成し遂げた人物です。天才である一方、奇人変人のエピソードも数多く残されている熊楠。2017年に生誕150年を迎えてなお、熊楠の魅力はすたれることがありません。 

 2015年4月、「熊楠を語る」をテーマに、大阪・阿倍野オーバルシアター&ギャラリーで浪曲と講演、対談のイベントが行われました。

 第一部では、浪曲師・玉川太福(たまがわ だいふく)さんが青年期の熊楠の姿を描いた「南方熊楠伝(作・行田憲司)」を生き生きとうたいました。曲師は沢村さくらさんです。
 第二部の講演では、臨床哲学者・西川勝(にしかわ まさる)さんによるお話で、熊楠の生涯にわたる知の探求をたどりながら、学びについて考えました。
 第三部では、西川さんと玉川さんが熊楠の魅力について語ります。

 第二部の講演を前編、中編、後編に、第三部の対談を前編、後編に分けて、noteで公開します。

2015年4月18日(土)阿倍野・オーバルギャラリーで「熊楠を語る」が行われました。


●熊楠と僕

 ねえ、浪曲って良いですね。全身全霊を込めてね、汗まみれになって浪曲唸られた後で、だらっとしゃべるのは、なんかなあと思いますけど。最初に紹介の時に、「二部は学者の西川さんが」いうふうな(紹介)でしたが、私、学者ではありませんので。哲学者っていうことで(笑い)。

 哲学者は、何も知らない人のことを哲学者というんでね。知ってる人のことをソフィストと言いまして。哲学者はフィロソファーと言って、要するに学者と哲学者はもうソクラテスの時代から仲が悪いですよ。(哲学者が)知ってるって言うと、それは哲学者を廃業したということで、今日も南方熊楠について、何か立派なことをしゃべろうというつもりは毛頭ありません。
 
 じゃあ、何をしゃべるのかということですけど、僕と南方熊楠の今までの付き合いというか、まだ会ったことはないんですけども。かなり僕の人生の中では、熊楠は大きな人で、そのことについて話したいなと思っています。

第一部で「南方熊楠伝」をうたう浪曲師・玉川太福さんと、曲師の沢村さくらさん

●南方マンダラのこと

 こけおどしですけど、これ(着ているTシャツを指して)、南方熊楠記念館で買ってきたTシャツでして。これ有名な南方マンダラなんです。

 南方マンダラって別に南方熊楠が(名前を)付けたわけじゃないんですよ。鶴見俊輔さんていうね、『アメリカ哲学』とか書いたプラグマティズムを日本に紹介した有名な人がいます。その人のお姉さんの鶴見和子さんが熊楠について学問的には一番強く紹介した人だと思います。

 その鶴見和子さんが、インド哲学の中村元(なかむらはじめ)先生にこれを見せた時に「あっ、それは南方マンダラだね」という話をされたんです。世界の不思議がここに書いてあるそうです。

 僕の頭の中、今こういう感じです。全然まとまりがついていないていう感じなんですけどね(笑い)。

南方熊楠が書簡に描いた「南方マンダラ」

●話すこと 浪曲と講演と

 僕、いろんなところで話をしたりします。例えば、ここ(オーバルギャラリー)二回目ぐらいなんですけど、ここに最初に来た時は、‘contact Gonzo’という、殴り合いをする若者たちのパフォーマンス集団があって、彼らがここでいろんなことをやってるのを見たことがあるんですけども、そういうパフォーマンスするダンサーだとか、それから映像作家の人だとか、アーティストの人達ともいろいろやることあるんですけど。

 浪曲の後にしゃべるのは初めてです。やっぱり声と話の迫力があるから。僕もしゃべるだけが武器ですから。普通電気消してね、みんなの顔が見えないようにして、パワーポイントっていう電動紙芝居でごまかすのが、学者先生のやり方なんです。僕はああいう邪魔くさいことができないので、いつも体一つで出てきてお話をすると。そうするとつまんないなという皆さんの顔がはっきり見える。はっきり見えて、「うう痛いなあ」と思いながら、話をするということになります。

 おそらくここに来られてる方、浪曲ファンの方も多いと思いますけど、南方熊楠ファンも結構いてる。熊楠ファンって、結構アツいんですよ。アツい、しつこい、暑苦しいくらい、物凄く熊楠に関してはしゃべりだすと止まらないみたいな人いるんですけども。

●まずは明治生まれの祖父のことから

 実は、僕は昭和三二年生まれの今年で五八歳ですけど、熊楠は慶応三年。慶応三年って、すぐに明治元年になりますから、明治の年号と熊楠の年齢とは、ほぼ一緒なんですね。明治二四年に、熊楠と関係ないですよ、僕、西川勝のお祖父ちゃん、西川治郎平(にしかわ じろへい)が岡山県で生まれました。
 
 それで明治二四年生まれの祖父なんですけども、彼に寝物語をしてもらいながら、ずっと育って来たわけです。今でこそ三世代同居って少ないですけど、我が西川家は、由緒正しき貧乏人の家族でして。阿倍野です。阿倍野って王子町のあたりなんです。ガラス屋さんの二階を間借りしてましてね。六畳一間を間借りしてたんです。

 (そこに住んでいたのは)、子どもからいきましょうか。僕、長男なんですよ。次が妹で、それから弟がいて。その原因である父と母がいまして。その母の父が治郎平だったんですね。六人ですよ、六人で六畳!ねえ。どうやって子供作ったのかなって、不思議でしかたないです。

 父親はだから、母親の親父さん(と同居)なわけで、すごいやりにくかったなと思うんです。おやじはね、きっと。それでもちゃんと生んでいただいて、六畳一間で育ってきました。小学校入ってから、ちょっと堺のほうに移って。

 それでもね、やっぱり親父は仕事ばっかり行ってて、なかなか家帰ってこないんで。頼りになる男といえば治郎平しかいない。ところが、この治郎平が酒飲みでして、お酒を飲んでは刺身のツマだけ、ケンだけを僕にくれるわけなんですね。立ち飲み屋に行っても、スルメを一本だけめくって、僕にしがませているという人でした。

●明治末期、祖父がフィリピンへ移民

 この彼のことも言いたいんですけど。明治二四年生まれ。(治郎平の)母親は治郎平を産んですぐに亡くなりました。それで、残されてやもめになった父親も。三つ、まだ親父の顔も覚えられないぐらいの時に死んじゃってるんですね。

 天涯孤独の身になった治郎平は、遠い親戚に預けられるわけです。農家、百姓に預けられて、田畑を耕すという仕事をするわけです。尋常小学校四年生までは学校行ってるんです。それから二十歳になるまでは、ただひたすら岡山の(今、赤磐(あかいわ)郡といいます)山の中で、明治ですし、新聞も何にもない、電線なんか見たこともないところで、畑仕事してたわけです。

 彼、二十歳の時に、一人前になったからということで、少しの畑とそれから治郎平の父の墓地(はかち)、墓地ですよ。墓は立ってない。はかない(儚い)人生なんですけども。未だに西川家、墓ありませんが。その墓地をもらったんですね。どうしたかというとその畑と墓地を即座に売り飛ばして、即座に売り飛ばしてですよ!もう日本なんかにいても芽は出ないということでフィリピンに移民します。

 小学校四年生までしか出ていない。ずーっと片田舎でまったく情報も何も入ってこないような時代にどうやって、そんなフィリピン移民の計画なんかがあったのか、よく分かりませんけれども、明治の終わり頃、移民政策が結構とられています。熊楠の生まれた和歌山にしろ、それから岡山県なんかも、どんどんどんどん。その貧しい暮らしで、次男坊、三男坊になったらいるとこないわけですね、田舎でね。で、新天地を拓くために、ブラジルだとか、フィリピンだとか、さまざまな所に移民するということがあったわけです。

 うちのじいさんも本当はブラジルに行きたかった。でも金が足らないので、途中のフィリピンで終わったということらしいんです。マニラに着くまでの船旅の中でスペイン語を自分で勉強をしたと言ってました。どの程度出来たか、僕は知らないです。まあ、すごい夢を抱いて、フィリピンに着いて、サトウキビのプランテーション、大農園のところで、ものすごく安い労働者ですよね。労働者として入るわけです。

 彼なりに新しいところでなんか一旗上げるぞと。熊楠だってそうだったかもしれませんけども、熊楠は金が無くって食うに困ってアメリカに行ったわけじゃないです。そこらへんが違います。当時の日本人は、長い間の鎖国もあったでしょうけど、目がどんどん外に向いていたということです。何か機会さえあれば、飛び出してやろうというような人達が多くいた。

 それがそれほど幸せな歴史を作っていったかというと、そうではないのが残念です。そういう日本だけに縛られない、ある意味では、明治大正なんていうのは、今の世の中よりも、もっとみんなの胸の中は湧き立つような情熱で生きてたかもしれません。

●祖父、赤痢で帰国

 そうやってマニラまで行くんですけども、彼はなんと可哀想に赤痢にかかってしまうんですよね。これが伝染病なもので、強制帰国ですよ。まだ帰りの電車賃も、あ、電車賃じゃない。電車で帰って来れません(笑い)。帰りの船賃も貯めていないのに赤痢になってしまった。それで、うんこも止まらないうちに無理やり強制(送還)の船に乗せられて。

 (日本出発前には)「もう二度と帰って来ない」ってね、父親の墓地まで売ってるんですよ。もう合わす顔ありませんよ。でも、どこも行くとこないですから、ずっと岡山の、ほんとに何にもないところで、二十歳までずーっとやってたわけですから、知ってるものは日本といえども、その岡山にしかいないわけですから。もう一度岡山に帰る。

 伝染病ですから村の人達にも(村に)入れてもらえないということで、山の中に掘っ立て小屋みたいなものの中に入れられて、ご飯だけは、一日一回、握り飯を持ってきてくれる。うんこが止まらない。もう情けないって思ってるときに、お祖父ちゃんのことを小学校の時の校長先生が覚えていて、あれだけ「出て行く」って言って、立派に出て行ったあいつがどうも山の中でうんこ垂れ流しになってるらしいと。実はこの小学校の校長先生は、治郎平に「上の学校に行くように」と勧めてたわけです。ところが「自分は親戚に世話になってるのに、これ以上お金を出してもらって恩義を借りて、そんなことしてまで勉強はしたない」という形で断ってたんすよね。

 だから校長先生はすごく治郎平のことを買ってたわけです。やって来て何をしたかというと、「まあ食うに困るやろうから、ちょっと巡査の試験でも受けてみいひんか」と。巡査の試験てね、尋常小学校四年(の学歴)では取れないんです。でも明治の頃はいい加減だったんです。

 小学校の先生が適当に書いてくれるわけですよ。ぎりぎり巡査の試験を受けれる資格を、まあ捏造するからということで。巡査の試験を受けるための問題集みたいなものを、一冊ポンッと置いて帰ったそうですね。それでも他にすることないですから、うんこを我慢しながら、その本を見てて、という形で独学をして、警察官になったという男なんです。

●警察官を辞めた祖父、再び海外へ

 まあその後も色々あるんですが。そのお祖父ちゃんが警察官を長いことやったんです。八幡製鉄がストライキを起こして溶鉱炉を消した労働運動の指導者を、拉致監禁する役目をお祖父ちゃんがするわけです。当時、警察官ですからね。ところがですよ、話を聞いているうちに「こいつは立派な人や」と感心して、夜の夜間外出を認めるという。これがばれて「お前は赤か」と言われて、赤でも何でもないということで、結局警察官をやめて。

 んで、また「中国に行く」と言うてね。中国に行って南京は首都飯店(シュトハンテン)ていうホテルの用度係をしてると。それで「ここでもういっぺん、一旗揚げたろう。あんな警察官やっても仕方が無かった」と思いながら頑張ってるのに、戦争が始まって「こらあ、いてられへん」てことで逃げ帰ってきた。

 あと日本に帰って来てからは、まったく芽が出ませんでしたっていう。六十、七十歳ぐらいのときに、ずっと僕に色々話するわけですよ、自分の若い頃の話をね。と、同時に。と同時にですよ、話前置き長いですね。

●祖父と熊楠 日本で一番偉いのは…

 ここでやっと熊楠出てくるんです(笑い)。「勝、勝、日本人で一番偉い人は誰か知ってるか」「天皇ちがうん」ていうたら「あほか、あいつには恨みがある」(笑い)。何の恨みか知りませんが、戦争でね、夢が破れたということなんかもしれません。「南方熊楠っていう人や」と言うわけですよ。

ほんと幼い頃に、「日本人で一番偉いのは誰やっていったら、南方熊楠や」ってね。「その人は学校は出てない」。学校は出てないけれども、ロンドンで、先程の浪曲にありましたよね。日本人として、初めてそういう『ネイチャー』だとかそういう学術らしい論文を出して。それも、ロンドンの偉い先生のとこに弟子入りしてとかね、留学してとかじゃなくて、「単身一人殴り込みのようにして、馬小屋で勉強しながら、それでビールを飲んでは小便を壺に溜め、窓から投げ捨てるみたいな無茶苦茶なことをしながら、そうやって論文書いた人なんや。もう、どんな言葉でもしゃべれるんやぞ」と。

 嘘でしたけどもね、それはね。そんなわけはないんです。そういう形で熊楠のことをずーっと褒め称えていました。僕は、日本で一番偉いのは天皇ではなく熊楠なんだと、ずっともう幼い頃から刷り込まれてきたんです。

中編へ続く


西川勝(にしかわ まさる)
1957年、大阪生まれ。専門は、看護と臨床哲学。元大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授。現在はNPOココペリ121理事。高校卒業後、精神科・透析治療・老人介護の現場で看護師や介護士として働く。一方で関西大学の2部で哲学を学び、後に大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在は「認知症コミュニケーション」の研究を行いつつ、哲学カフェやダンスワークショップなどの活動にも取り組む。著書に『となりの認知症』(ぷねうま舎)、『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)、『増補 ためらいの看護』(ハザ)、『臨床哲学への歩み』(ハザ)など。共著に『ケアってなんだろう』(小澤勲編、医学書院)など。



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