熊楠の知の探求から 学びを問いなおす 臨床哲学者・西川勝さん、熊楠を語る【後編】
博物学者・南方熊楠は、粘菌の研究、民俗学、語学など多分野で偉業を成し遂げた人物です。天才である一方、奇人変人のエピソードも数多く残されている熊楠。2017年に生誕150年を迎えてなお、熊楠の魅力はすたれることがありません。
2015年4月、「熊楠を語る」をテーマに、大阪・阿倍野オーバルホールで浪曲と講演、対談のイベントが行われました。
第一部では、浪曲師・玉川太福(たまがわ だいふく)さんが青年期の熊楠の姿を描いた「南方熊楠伝(作・行田憲司)」を生き生きとうたいました。曲師は沢村さくらさんです。
第二部の講演では、臨床哲学者・西川勝(にしかわ まさる)さんによるお話で、熊楠の生涯にわたる知の探求をたどりながら、学びについて考えました。
第三部では、西川さんと玉川さんが熊楠の魅力について語ります。
第二部の講演を前編、中編、後編に、第三部の対談を前編、後編に分けて、noteで公開します。
●熊楠、湧きおこる無用の好奇心
熊楠もそうなんですよ。常にもっと知りたい、もっと知りたいと思いながら、最初のうちはなかなか、その金物屋の商売上手の父親は本も買ってくれません。だから友達のところに行ってはその本を見つけて写していく。本屋に行って読んでは、『太平記』なんかを暗記してまた書き写す。
彼はもともと博物学というか、天地人ですから、特定の分野に偏った好奇心持ってないんですよ。特定の分野じゃないんですよ。今の教育は、みんな「私は学者になりたい」という人でも大阪大学で大学教員になる方法とかていうゼミもあるんですけど、馬鹿じゃないかなと思ってるんです。要するに自分は理系なのか、文系なのか、とかね。それから自分の専攻は何にするのか、まだそれほど生きてもない奴がね。すぐに自分の専門を決めて、それをただひたすらやっていくていうような形で、ずーっと学問していくんですよね。それ学問かどうかも、あれですけども。
熊楠は何かになるために、やったんじゃない。七歳の時にですよ、『和漢三才図会』を写して何になろうというようなことはなかったですよ。無用の好奇心。役に立たない。実際役に立たなかった。熊楠家に対してはですよ。南方家に対しては何の役にも立たない。一回も働いてないですよ。南方熊楠って。すごいと思いません(笑い)。
●働いたことがない熊楠
生まれてから一回も働いてない。まあ多少働いた。アルバイト的なことはやったことはある。でもロクなことやってないです。キューバでね、サーカス団に入って、サーカス団の女の子の代わりに恋文を書いて、代書屋をしたりだとか。それから、肉屋の中国人が「熊楠、困ってるから来い」というんです。けども、別に仕事させるわけでもなくって、熊楠が夜中勉強してたら、「邪魔になるから、わしはよそで寝てくる」みたいなね。雇ったところですっごく迷惑なやつなんですね。
あとロンドンの時の話も出てましたけど、ロンドンで金に困ったときも、浮世絵を商売にするやつがいて、浮世絵といっても春画です。ジャパニーズ・ポルノ・グラフィってやつを、それだけでもすごい人気なんですけど、それに卑猥な英文をつける。圧倒的に卑猥な。英文は、もともと英文論考かなり多い人なんです。僕は読めないですからわかりませんけども。鶴見和子さん、多分読めるでしょう。鶴見さん、ハーバード(大学出身)ですからね。鶴見和子さんが言うには、熊楠の英文論法というのは、非常に論文作法を守った由緒正しき論文なんですって。だからこそアカデミーの中で(評価が)出たんでしょう。
●熊楠の雑言あふれた手紙
一方、日本語の熊楠。すごいですよ。土宜法龍(どき ほうりゅう)という高野山の管長。真言宗で一番偉い人、その人に対してで、「やい、米虫法竜(こめむしほうりゅう)」!米虫ってわかりますか、お米の中にいてる虫のことです。働きもせんと米を食う虫って。えげつないこと言うでしょ。
「坊主は、働きもせんと何かわけのわからんこと言うて飯食っとる」ということ言うて。それで自分のことは金粟如来(きんぞくにょらい)かな、自分のことは如来、悟りをすましたやつや、みたいな形で。それで、すごいべらんめえ調というか、ガラが悪いというか、そういう手紙をあちこちに送りつけます。
●熊楠の奇人ぶり…根にあるのは正直ということ
履歴書が欲しいってね、晩年のころに言われるんです。熊楠って弟の仕送りでずっと生きてたような男です。その弟もさすがに嫌気がさして、「もう知らん」ていうた時に、熊楠もあんま感謝せんとね、「お前、もっと持ってるやろ」みたいな感じで文句いうやつですから、(弟の)常楠(つねぐす)、いまでも世界一統というお酒の会社(元、南方酒造)ありますけど。今、熊楠が写真、ぽーんと貼ってあるお酒がけっこう売れてるんで、ようやっと弟に恩返ししてるみたいな感じなってます。
金が無くなった時にみんなね、「熊楠先生を助けたろうやあ」って話になって日本郵船(株式会社)ていう会社のなんとかさんに、設立発起人みたいなんで(入れて)やろうとした時に「じゃあ、熊楠さん。履歴書が欲しい」てね。履歴書が欲しいて言うたら、8メートルある履歴書を送ったそうです。こんなこまかあい字でですよ。それで、もうね、話しがどんどん飛ぶ履歴書で、そりゃおもしろいですよ。我々が読んだら。我々が読んだらおもしろいけど、それ送りつけられた人は、そんなために頼んだわけじゃないよね。人の気持ちの全くわからない人ですけども、自分のやりたいことを、目いっぱいやる人なんです。
そういう意味では、天衣無縫、無邪気、正直なところがあって、その正直さが世界に対する関心ていう点でも、群を抜いてたっていうことですよね。
●音読、写本 自分の体を染み通らせるような学問
いっぽう我々が、大学の先生一応してますから、インテリと誤解されたりだとか、さっきも学者とかって誤解されたりしますけれども。大学で今の公的な教育制度の中で人々は本当に学問できるのか。非常に疑問だと僕は思っています。
今の学校は、学問する気持ちを片っ端から芽を摘んでいくっていうね。名何か無用の好奇心を持ってたらそれはやめなさいっていう感じできれいに殺していく場でしかないんじゃないかな。それこそ、ただ書き写すだとか、本を声を出して読むだとかいうなら、もう馬鹿にされてるわけですよね。
ところが、こないだ大阪大学コミュニケーションデザインセンターで、池田光穂という文化人類学者、医療人類学やってる人なんです。この人ね、熊楠みたいな顔してるんですよ(笑い)。まあ熊楠のほうが男前です。彼も中南米ホンジュラスだとか、メキシコだとか、いろんなとこ行ってですね。本当は大阪大学の医学研究科の大学院途中で休学して、メキシコ行って、簡単に学問を捨てようとして、メキシコで焼き鳥屋になろうとしたそうです。ところが金騙し取られて、仕方なしにまた大阪大学に戻って、学者になったという人なんです。
彼が授業の中で、音読をする授業をしました。大学院生相手にですよ。声出して読め、と言うだけですよ。声を出して読む、何の解説もない。何の解説もない!ところが、読んでいくうちに、声を出して読んでいくうちに、やっぱり理解の深さが読み方に反映されてくるのが如実に分かります。
それから書き写すこと。僕は鷲田清一というね、敬愛してる師匠がいるんです。時々、鷲田清一さんのですね・・・様の、先生の(笑い)文章を書き写したりするんですね。書き写すとなんか自分が少し、ほんの少し、一行写したら、一行賢くなったような気分になってくるんですよね。でも、これ大事なことなんですよ。
学問て脳でするって、今、どちらかっていうと思いがちなんですよね。脳にいろんな障害が出てくると、学習障害が起きるだとか、知的な能力が下がると。「知」は、脳髄でするものか?今言った音読。音読は、息使って、声出してということで体を使ってやります。書き写すこともそうです。ね、見て、持って、書いてと言うね。やっぱ、身体なんです。身体に染み込ませる学び方なんですね。見て、ツラツラ(書く)んじゃない。
速読だとか何だとかって、いろいろ流行ってます。情報検索だとかいうてますけど、とにかく手軽に、手抜きの知識の収集というようなことが、今流行ってます。そうじゃなくて実際に自分の体を染み通らせるような学問のあり方ていうのを、もう一度考え直してもいいかもしれない。一方でそういうものを喜びとできるということは、すごい大事なことで。
●科学誌『ネイチャー』に発表 熊楠の知の結晶
熊楠は勉強好き(べんきょうずき)です、ものすごく。ものすごく勉強好きです。その勉強の仕方も、そういうひたすら書き写すというね。子供の頃から『和漢三才図会』を三年間で書き写す。
それだけじゃない。『本草学』今でいう植物学ですよね。薬物学みたいなものも写す。それから貝原益軒の著作なんかも写してますし、『太平記』も写してるしと。もう子供の時からずーっとそうなんですよね。
それで東京に、大学予備門に入ってすぐ辞めるんです。「脳に疾を生じて辞める」みたいなね。脳がちょっとおかしくなったから辞めるて、大学すっと辞めはるんです。その時も、学校にはほとんど行かずに、上野の図書館に行ってはノートを取っていたということです。
ロンドンでは、「ロンドン抜書」というて何冊やったかな、ちょっと忘れましたが、五十冊くらい全部で。だから、その時に書き写したの、十何ヶ国語あるというわけです。全部読めたかどうか知りません。それでも読めなくったって、写してたんですよ、きっとね。だって日本に帰ったら絶対手に入らないんですよ。
イギリスが、大英帝国が世界各地から奪い取ってきた知の財産です。ね、奪い取ってきたんですよ。皆がどうぞというたわけじゃない。片っ端から奪いとってきてね。もうこれは俺達のもんだ、みたいな感じで。さっきもありましたけど、日本人が来たら、「何だおまえ」みたいな感じで。「これはイギリス人、大英帝国が集めたものだぞ」みたいなね。「知」は、ある意味権力とすぐに結びつきやすい。
そういうところに、熊楠は飛び込んで行って。何か別の権力を使うわけじゃないです。夏目漱石は別の権力を使って、公費の留学生として行ったんです。ところが、たかが日本ですから、やっぱりロンドンに行ったら勝負は分かってるわけですよね。権力対権力なら。そこであっという間にノイローゼになってしまうことがあるのかもしれません。熊楠って人はそういうものを全く使わなかった。親の脛はかじりまくってたけど、国家の脛にすがりつくようなことはしなかったわけです。
そういう中で、彼が学んできたことを、物凄くダイナミックに、アメリカでもそうですけど、アメリカではそんなにやってないんです。ロンドンに来てから『ネイチャー』に論文出して学士、学名を上げることなんです。
●後半生の熊楠の本質
あと、その後、後半生は田辺ていうところ。和歌山のいいところで、その顕彰館って。熊楠記念館は白浜にあります。こっからすぐそばに、南方熊楠顕彰館という、熊楠が田辺で三十数年間過ごしたその家を博物館みたいにしてあるとこがあるんですけども、そこで後半生ずっと過ごすんですよ。世界を股に歩いてたやつが、後半生はひたすら田辺から一歩も出ないっていうね。
この二つの人生の明暗、とは言いませんけども、まったく違った生き方。しかし熊楠が本当の意味で自由自在に知の世界に遊ぶようになるのは、その田辺に行ってからです。走り回ってるときの熊楠、ロンドン時代。たしかに名は売れました。でもまだまだということですね。田辺に入ってからこういう南方マンダラていうような、彼独自の世界というものを創り上げていくわけです。
今なんていうんですかね、我々は単純に見聞を広めるだけじゃなくてね、情報たくさん手に入れれば何とかなる。前半生の熊楠のやり方ていうのは、本だけじゃなくて、本は全部、片っ端から自分の体を通して書き写す。
そして実際に自分が粘菌でも何でも植物採集でも、全部実際自分が山の中に入って、二日も帰ってきいへんから「天狗にさらわれた」というて、それで「てんぎゃん(天狗)」ていうあだ名があったそうで、実際自分が行く。「先生の言うことは嘘が多いので、わしゃ聞かん」とか言うて、山の中行ったりなんかしてたわけです。そういう自分の経験ていうことを、非常に重視した若者時代が、あるんです。
田辺ではそういうことができなくなった。お金もない。どんどん年老いていく。終いには、もう大事な植物採集も娘さんに代わりにしてもらう。でも彼は持ってきてくれたものを、一生懸命絵にして写すことは死ぬまでやめないですよ、死ぬまでやめない。
●功績を残すためではない 熊楠の学び・知
そしてその、ちょっと悲しい話なんですけども、熊楠の息子、熊弥(くまや)というんですが、彼が二十歳ぐらいの時に、精神的に発病して、不治の病になってしまうわけです。
熊楠がずっと書き溜めていた菌類図、一枚描くのに物凄い集中と努力が必要なものを、(息子・熊弥が)てんでんビリビリバラバラに破っちゃうわけです。破っちゃうわけですけど、そのことについて熊楠は怒りの一言も漏らさなかった。
要するに何か自分が物を描いたりていうのを、何かのためにするというんじゃないですよ。何かのためであったら怒ってるはずですよね、そんなことしたら。そうではない、そういうものではない、何か見える物を、実際に自分が見て触ってみる、そういう実際の経験も非常に重んじました。
さっきの浪曲でもあったような、もう亡くなったはずの親父さんを呼び寄せるというね。えっとこれは那智のところで、何日間も山に籠って植物採集してる時に、やっぱりそういう風な霊的なものとのさまざまな交感をしながらね。「それで教えてもらったから、珍しいものを見つけられた」みたいなことを日記に書いてます。
彼は目に見えるものは、見えるだけじゃなくって、触ってみるし、その実際に自分が経験するってことを重んじましたけど、もう片一方で見えないもの、常人には見えない、見えないから無いとされるものを、決して無いとはすぐに短絡的に考えない。見えないところにも真実というもの、あるんだということですね。
●永遠の知の探究者・熊楠
熊楠が亡くなる、その日だったかなあ、忘れました。もう危篤が近いって時に、家族の者に言うんですね。「医者は呼ぶな。今、天井に青い花、青い(紫の)美しい花が見えている。医者が来ると、その花が消えるから」と言って、あとは「もうわしは寝るから、わしに触るなよ」と言って亡くなったというんです。
きっと彼は天井に見えている美しい花、それは実物でも何でもないわけです。ね、そうでしょ。自分の幻かもしれない。医者が来たら消えるようなもの。医者って合理(主義)者が来たら消されてしまうような、自分の無限なんですけども、でもそれを大事にしながら亡くなっていった。熊楠って非常に実証主義的なイギリス、ロンドンで学問積んだ人ですから、イギリス経験論とか、そういう背景を持った世界的な学者の素質も十分だと思います。
片一方で、そういう見えない世界ていうものに対する、真言密教なんかの造詣も深いわけで、そういうものと通底するような、素晴らしい知の探究者っていう気がします。
それを今日は太福さんの浪曲で熊楠の青年期の頃の活気あるところを浪曲で聴かせていただいて、凄くおもしろかったと思います。僕の話これくらいで終わらせていただきます。ありがとうございました。(終)
西川勝(にしかわ まさる)
1957年、大阪生まれ。専門は、看護と臨床哲学。元大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授。現在はNPOココペリ121理事。高校卒業後、精神科・透析治療・老人介護の現場で看護師や介護士として働く。一方で関西大学の2部で哲学を学び、後に大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在は「認知症コミュニケーション」の研究を行いつつ、哲学カフェやダンスワークショップなどの活動にも取り組む。著書に『となりの認知症』(ぷねうま舎)、『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)、『増補 ためらいの看護』(ハザ)、『臨床哲学への歩み』(ハザ)など。共著に『ケアってなんだろう』(小澤勲編、医学書院)など。