熊楠の知の探求から 学びを問いなおす 臨床哲学者・西川勝さん、熊楠を語る【中編】
博物学者・南方熊楠は、粘菌の研究、民俗学、語学など多分野で偉業を成し遂げた人物です。天才である一方、奇人変人のエピソードも数多く残されている熊楠。2017年に生誕150年を迎えてなお、熊楠の魅力はすたれることがありません。
2015年4月、「熊楠を語る」をテーマに、大阪・阿倍野オーバルホールで浪曲と講演、対談のイベントが行われました。
第一部では、浪曲師・玉川太福(たまがわ だいふく)さんが青年期の熊楠の姿を描いた「南方熊楠伝(作・行田憲司)」を生き生きとうたいました。曲師は沢村さくらさんです。
第二部の講演では、臨床哲学者・西川勝(にしかわ まさる)さんによるお話で、熊楠の生涯にわたる知の探求をたどりながら、学びについて考えました。
第三部では、西川さんと玉川さんが熊楠の魅力について語ります。
第二部の講演を前編、中編、後編に、第三部の対談を前編、後編に分けて、noteで公開します。
●読んで熊楠の視点を得る
今、熊楠について色々考えること、語ることは、みなさんね、今なんぼでも情報ありますから。ね、もう近くに行ったらタダで入れるでしょ、図書館ね。図書館タダで入れるし、インターネットできる人は、「クマグス」とやったら一生かけても読み切れないほどの情報が手に入ります。ここでそんなことを僕がやったところで仕方がない。
で、熊楠について語るんじゃなくて。本を読むってこともそうです。熊楠は本沢山読みました。でも、本について書いたんじゃおもしろくない。彼は西洋(の本)だけじゃなく、一切経っていう仏教の経典を全部読んだりしてるわけです。
彼はその読んだ本について、論文を書いただけじゃないですよ。読んだものを通して、そういう西洋人の考え方、仏教の考え方、それらを全部片っ端から入れていって、熊楠の中でこんな世界を作って、そして彼は、その見方で世界をもう一度読み直そうとしていた。
本を読むとき、大事なことは何か。本を読むんじゃなくって、読んだ後、その本で世界を読み直すことです。熊楠を読むことじゃなくって、熊楠を読んだら、熊楠の視点でもう一度世界を見直す力を持つことが大事なわけです。
●熊楠の残した写本と記憶力
そういう点でいうと、熊楠のあの記憶力の凄まじさ。今日も本の書き写しとアメーバ取りに明け暮れる話ありました。
白浜の南方熊楠記念館。鬱蒼とした植物園みたいなとこ、ずーっと上がっていきますと、南方熊楠記念館があるんですけど、そこにあるのが熊楠が幼い頃、七歳か八歳と言ってましたっけね。そこに書き写した『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』、(言葉で聞くだけだと)意味わかりませんけども「和」は日本、「漢」は中国、天地人を「三才」というんですよ。要するに天でしょ、地でしょ、人間でしょ。要するに世界全部ということです。宇宙全部ということです。
だから「和漢」の「三才図会」、世界全体についての絵入りの百科事典ということです。江戸時代の頃にできた『和漢三才図会』という絵入りの百科辞典です。それが百五巻あるんですよ、百五巻ね!まあ、一巻の量は、たいしたことないです。それでも全部合わせたら、僕の(背の)高さくらいあるんじゃないでしょうか。
三列ぐらいに並べてて、これ(膝の高さ)ぐらいでしたから、本物はね。今は平凡社の東洋文庫の中に『和漢三才図会』が三冊本で出てます。
それにしたって、当時は和綴じの本ですからものすごい(量)です。それを彼は友達の家に行って(写す)、最初はね。当時のお金持ちのインテリはそれを持ってるわけですよ。それを見ては、覚えて、そしてテェーッと、てんぎゃん(天狗)走りして、天狗のように家帰って来てそれをすぐに写すとゆうようなことやってる。流石にそれで全部は写されなかったらしいです。それで終いに友達に本を借りるようになって、その百五巻を三年間にわたって筆写し終えるわけですよ。すごいですよね。小学生ですよ。小学生が百科事典を全部丸写しってね、とんでもない話ですけども、そういう癖は、元々幼い時からあったみたいで。
熊楠は、和歌山の金物屋の息子として生まれるんですね。最初っから金持ちじゃないです。だんだん親父さんがしっかり商売して金持ちになるんです。商売熱心な人は、それほど学問好きじゃないんですね。鍋釜を包む紙あるじゃないですか、反古みたいなね。そこに字が書いてあるとそれを片っ端から写す、そういう癖が熊楠には昔からあったみたいで、それがずーっと治らずに一生過ごすわけです(笑い)。
「勉強なんかするな、紙と筆、墨の無駄遣いや」みたいなことで、もう全然相手にされなかったんです。ひつこく、ひつこく、そうやって親が本買うてくれへんかったら、もういろんな所に走って行っては、もうそれこそ本屋に行ってですよ。本を見て、そしてグーッとなんか真剣な顔したガキがグーッと見て、家帰ってきたらすぐにも写し出すていうね。
その写したやつが白浜にあります。一度見られたら、ちょっと腰抜かすと思いますよ。でもね、これを熊楠ってずーっとやるわけです。本を書き写すということで。今の時代そんなことをしてる人いたら立派だと思います。
●学問とは、書き写すこと!?
学問て何なのかといった時に、そんな人の本を写したって、それが学問になるのかと、そんな創造性があるのかと、ついつい思いがちです、我々。いろんなものを読めばいいじゃない。後は読んで自分でしっかりと考えて、「文章書くなり論をたてることが、それこそが学問や」て、思いがちですけども、実はそんなことはないです。
本は、今は山ほどあります。簡単に手に取ることができます。読むことができます。今の時代。(これができるようになったのは)今の時代なんです。今の時代で、過去まで、全てを理解してはいけない。当たり前のことやけど。
もっと遡りますと、印刷術も何も無かった時代ていうのは、本というのは印刷されたものじゃないですよ。書かれたものです。江戸時代なんか版木という形で、出版もあります。それも物凄く貴重なものですね。だから学僧といって、学問をする僧侶って何をしてたかというと、お経をただひたすら写してるわけですよ。
「一切経」なんて物凄い巻数なんですけども、熊楠はそれも何遍か読み通して、それから抜き書きもしてます。要するに中世でも、ヨーロッパの修道士なんかもそうです。労働もしますけど、彼らが学問する修道士って、ただひたすら聖書を写してるんです。写すこと、写本することが学問の基本的なあり方だったんです。
●明治・大正期の学問のあり方
大学教育の中で今でこそ、そんな人あんまりいません。例えば、僕が修士論文で取り上げた九鬼周造という明治大正の頃の哲学者がいます。彼は祇園の町から京都大学に人力車で通ってきて、着くなり、ノートをパラッと広げて読み始める。と、学生はそれをひたすらひたすら写していく。しゃべったことを写していく。先生はノートを読んでいる。コピーがあったら、コピーして渡したら終わりみたいなものです。でも基本そういうことが学問のあり方だったんですよ。
馬鹿みたいと思うかもしれませんけれども、そういうものだったんですね。本はそんなに手軽に手に入るもんじゃない。見せてもらうことだって難しいわけで、それを読んでもらったら、それを書き写すってことです。
福沢諭吉の『福翁自伝』ていう本があります。その中にも『ズーフ・ハルマ』(江戸時代のオランダ商館長を勤めたヘンドリック・ズーフによって編集された蘭日辞書)といって、彼がまだ英語に開眼する前、オランダ語を勉強しようとした時に、やっぱしそのオランダ語の辞書を写します。
大阪にある懐徳堂が旧適塾で、そこで『ズーフ』や人に借りた本を写します。ひたすら、ひたすら写すんです。けども時間がない。寝てたら写せないということで、朝までひと目も眠らずに写す。ゆうようなことをして。まずは勉強しようと思ったら、その本が手軽に手に入らないんだから、それを書き写す。
で、師匠が言ったことは全部ノートにとる、また文字にすることなんですよね。だからある意味で、本を読むってね、人の経験をタダ取りすることですよ。昔は奥義書とか、そういうことですけど、やっぱり、その人が生きて苦労して手に入れた知識は、そう簡単にもらえるもんじゃなかった。話してもくれない。だからこそ知識は一部の人達の、まあゆうたら特権だったんですよね。それを譲り受ける、伝えられることは、口移し、それを書き残す、または本を見せてもらってそれを書き写すという。そういう形でしかなかったわけです。
で、これが今の僕達はいくらでも手に入るから、じゃあ今学問しやすい世の中になったか。どうなんでしょ。情報は溢れるほどあります。
●一冊の書物に出会うということ
わずか五十八年しか生きてない僕も二十歳の頃、哲学科の学生でして、フランス語読めないんですけど、パスカルを卒論にしたいと思ったんです。パスカルの翻訳本はありました。「世界の名著」(中央公論社)とかでね。
ところがパスカルの『パンセ』、それをフランス語で読もうと思ったって、そんな洋書を売ってるところはなかなかない。それでわざわざ、京都のなんやったかな、至成堂(しせいどう)という洋書を扱っているところにまで行って、本を見つけて「『パンセ』や・・・」、とうてい手に入らない値段。いつまでも触ってたら怒られそうなんですぐ(本棚に)返すみたいなことをしてました。
今は「パンセ」とフランス語でネットで検索したらすぐ出てきます。プラトンのさまざまな「対話篇」、古代ギリシャ語でネットで検索したらすぐ出てきます。タダです。
僕みたいに京都をうろうろ歩き回って「ここが、ここが、至成堂っていう本屋さんやな」と。それでまあ学もあんまりないもんやから、わからん本棚を見ながらですよ。「パスカル、パスカル・・・」みたいなことしながら、ようやく本にたどり着けたとしても、それが買えない、ねえ。
図書館だって、町の図書館は、今ほど本はなかったわけです。学問的なことを、ぐーっと詰めてやろうと思うと、大学図書館、大学入らな使われへんみたいなところですね。要するに大学の先生は、昔、だいたい写真撮ると、後ろに本がズラーッとあるわけですよね。絶対に手に入れへんような本ね。古本でもどれだけ探すのが大変やったか。
大学は組織の力で本を溜めていきます。それを使えるのは一部の特権階級です。学生も使えるけど、学生よりも教授のほうがたくさん使える、長く使える。大阪大学でもそうです。僕はあんまり使ったことがないですけども、学生が何冊か知りませんが五冊やとしたら、教員は三十冊借りれる。学生が二週間だったら、教員は一年借りれる。無茶苦茶でしょ。知らんのは学生のほうやし、学生のほうにたくさん貸して、長いこと貸したったらいいのに。教授という教員のほうが、たくさん借りて長いこと置いとけるというね。
今までの、いわゆる大学だとか、学者だとかいわれてる人達の権威ていうのは、そうやって書物だとか知識を独占することによって成り立ってたわけです。ところが、今はそうじゃなくなった。情報開示じゃないけれども情報がもう行き交ってます。
だから、そういう意味では、もう最初にですよ、ネットでプラトンのその対話篇が、読めないですけどギリシャ文字で出てきた時には、もう腰抜かしそうになったんです。だからといってすぐ勉強しようとは思わなかった。
やっぱり憧れて、憧れて、必死になって探して、ようやく辿り着いた文字ならば辞書でも引っ張ってみようかと思うけれども。なんか簡単にキーワード入れるだけで、パーンと目の前に出てくる。それに我々の心が燃えるかどうか。燃えないですよ、やっぱしね。
何が大事なのかというと、やっぱり何か知りたい、そういう気持ちです。強い気持ち。それがなかなか実現されない。ようやく出会えた喜びが、やっぱりそういうものを知りたい学びたい気持ちになるんだと思います。
西川勝(にしかわ まさる)
1957年、大阪生まれ。専門は、看護と臨床哲学。元大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授。現在はNPOココペリ121理事。高校卒業後、精神科・透析治療・老人介護の現場で看護師や介護士として働く。一方で関西大学の2部で哲学を学び、後に大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在は「認知症コミュニケーション」の研究を行いつつ、哲学カフェやダンスワークショップなどの活動にも取り組む。著書に『となりの認知症』(ぷねうま舎)、『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)、『増補 ためらいの看護』(ハザ)、『臨床哲学への歩み』(ハザ)など。共著に『ケアってなんだろう』(小澤勲編、医学書院)など。