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56歳からの育ち直り③

わたしは、何もいらなかった。欲も無くなっていた。

ただただ、毎日を気楽に過ごし、一般的な寿命なら残り20年だか30年だかの人生を、消化することを考えていた。

それが、一変した。人を好きになったのだ。50歳だった。

わたしは女で、その人も女だった。彼女は売れてるミュージシャンだった。


わたしは1つのことに囚われ続けるたちだ。その強力な様は、持って生まれた特質と言っていい。

良い方に作用すれば、集中した事柄には成果を上げる。悪い方に作用すると、周りとの温度差が分からなくなり、独りで相撲を取る。

この時の恋は、楽しいことや嬉しいこと、ウキウキすることももちろんあったけれど、まとめて言えば、自分の特質が悪い方に作用した。


文字通り、寝ても覚めても、彼女のことが頭に浮かんだ。

彼女を思わない時間はなかった。

SNSによく登場する、プライベートでも親しい彼女のスタッフに、嫉妬した。

頭の中が焦げそうなくらい彼女を思い、体が焼けそうなくらい、全身全霊で、彼女に近い人を嫉妬した。

でも、彼女の前では、最大限努力して、そんな気持ちを隠した。


彼女は、有名アーティストのサポートをする一方、自分のライブ活動を行っていた。

ライブはたいてい、こぢんまりしたライブハウスで行われることが多かった。それはつまり、彼女と直接話せるということだった。

初めて言葉を交わしたのは、東京・中野のライブハウスだった。ステージが終わり、CDを求めに彼女のところへ行った。演奏中に紹介したCDを彼女は会場内で自分で販売していた。

「SNSで絡んでいるリノです」と、声を掛けた。声は震えていたかもしれない。

「あ!」と、彼女は声を上げ、「あのリノさん」と、気さくに返事をしてくれた。

「変なこと書いてたらすみません」みたいなことをわたしは言い、CDを買い、サインをしてもらい、会場を出た。

そのころから月に1回は、ライブへ行った。ほとんど東京方面で、宿も取らねばならなかった。

貯金が減っていったけれど、今、これに使うしかないと思った。生きる理由も、目的もなくなっていた自分には、彼女しかなかった。彼女以外に、何も見えなかった。

毎月一度二度会っていれば、顔なじみにもなる。しかも、地方から来ているとなれば、注目もされる。彼女には、「九井リノさん」と、認知されるようになった。

ライブが終わると彼女に「こんばんは」と挨拶をしにいく。「あのオリジナル曲、いいですね」などと言葉をかける。「ありがとうございます」と彼女は返事をする。

時々、「あした帰るんですか?」と聞いてくれたりする。「次はいつ来ますか?」と聞いてもくれた。

ライブ終わりは、ファンがたくさん、彼女に話しかけにいく。CD販売のやりとりもあったし、仕事関係の人と話していることもあった。

わたしは、人が途切れるまで待った。たいていは、一番最後だった。

そうしていると、わたしの姿に気づいた彼女が手を振ってくれることもあった。わたしは満面の笑みで手を振り返した。

焦がれている相手が、目の前にいる。いつまでも話していたい。

けれど、あえて押さえ続けた。強く押さえた。

とんでもなく強く押さえても、きっと普通のファンより熱心なのだ。

彼女に、引かれたくない。

わたしは二言三言で会話を切り上げるよう心掛けた。そして、「じゃあ、また来ます」と言って、別れた。

そのうち、「九井さんという人が毎月地方から来る」ということが、彼女のスタッフの間で知られるようになった(らしい)。スタッフの人があいさつしてくれるようになり、知り合いが増えていった。

SNSによく出てくる、彼女と一番親しいスタッフとも知り合った。

その人はスタイリストだった。もちろん、わたしは、その人を嫉妬しているなど、おくびにも出さなかった。

そういう、きっと遠慮しがちに見えた態度が、スタッフ間で信頼を得るようになっていたのだろう。(あとで分かったことだが、ファンには本当にいろいろな人がいて、目を光らせるのもスタッフの仕事のうちらしい。)

そのスタイリストさんがライブの打ち上げに「一緒にどうですか?」と初めて誘ってくれた。文字通り天にも上る気持ちだった。数人で彼女と飲めるのだ。

でも、その時もわたしは、終電を理由に遠慮した。終電がないなど、どうにでもなるのだが。

そんなふうに通っていたライブで、あるとき、あるスタッフからあいさつされた。責任者だというその人は、彼女と、CD制作やライブの企画などをしていた。

その人と話している時、わたしは何気なく言った。

「うちの地方でもライブの企画ができればいいんですが…」

それが後、現実になった。


<「育ち直り」までの前置きが長いけれど、彼女とのことはとても大事なので続ける>







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