【退職エントリ】自分の幸せについて本気出して考えてみた。
2022年の8月をもって、4年ほど勤めた博報堂を退職しました。
辞めた自分がいうのもなんですが、博報堂は、「ここまで?!」って思うほど福利厚生は手厚いし、恵まれた環境だと思います。
※忙しいけども
何より、広告が一番輝いていた時代のクリエイションを見て、自意識を育てた私としては、在籍できたことが率直に嬉しかったのです。
忙しくも楽しい仕事に感謝しながらも、同時に、「私って本当にこうなんだっけ?」と違和感を感じていたことも、事実でした。
得意を積み上げて評価されることへのうしろめたさ
今まで、得意なことをやって、それを人に評価してきてもらった自覚があります。すごく、ありがたいことです。
でも、評価されることに満たされなかった自分がいたことも事実です。
「やりたいことよりも、人に勝てること」を意識的に選択してきた自分に引け目を感じていたのだと思います。
「やりたい」に正直になるよりも、合理的な決断の先に、戦略的に身を置くほど、幽体離脱するような感覚を覚えるようになりました。
やりたいことがあるなら、やればいいじゃん、というシンプルな原則、ありますよね。
でも、なぜか足が出ない。
なぜって、自分に自信なかったのだと思います。
評価されない私が怖かった。
思えば、だれかに「いいね!」を貰うことを人生のカンフル剤としていたのだと思います。
誰かからの「いいね!」通じて、自分の存在を確かめていました。
自分のやったことを誰かが評価してくれて意味を与えてくれる。
そんな、人から「いいね」を貰うことはある意味楽ちんです。
自分の価値を証明する方法を人をゆだねて、気づけば待ちの姿勢になっていました。
忙しくてもしんどくても、その先に誰かが自分を見つけてくれるはずだと、どこかで思っていたのだと思います。
チームになじめないという体験
忙しいながらもそこそこ順調に過ごしていたのですが、とあるプロジェクトチームになじめないという体験をします。
なんだかんだ、効率よくうまく過ごしてきた自分に、この「なじめない」という体験は結構なインパクトがありました。
思えば組織のルールを内在化していたのだと思います。
大きなクライアントにハマれない自分は価値がないとか、その中で価値が出せないなら意味がないとか、本気でそう思っていました。
冷静になったときにふとこんな問いが浮かんできました。
誰のルールにのって、そのルールの範囲で踊って、いい踊りだったら評価される。
世の中ってそういうものかもしれないけど、でも私は嫌だ。
そんな人生は嫌なんです。
自分の踊る場所くらい、自分で選ぶし、いいと思う評価軸は私が決めたい。
誰かをうらやましく思って死ぬのだけは嫌だ
そこから退職にあたってはだいぶ話が飛びますが、結果いろんな出会いと気づきがあり、博報堂を退職することにしました。
退職を決断する際に持っていたのは、「どんな風に死ぬのが一番嫌か?」という問いです。
誰かに嫉妬するのは、生きていく上での健康的な感情だと、私は思っています。
悔しさが、自分も頑張ろうと思うエンジンになるのもいい。
でも、やりたいことをやれていない自分を認識したとたん、嫉妬が卑屈さに変換されてしまう気がしていました。
やりたいことをやらない限り、卑屈な人間になってしまうと思うのです。
やりたいことをやるのは人生のボーナスタイムなのか?
思えば、「やりたいことをやる」ことを握りしめ、そこに縛られ、こだわっていた4年間でもあるかもしれません。
やりたいことをやる、というと責任を果たさずして、自分のエゴドリブンに生きている。そんなイメージがどこか私の中にはありました。
本当にそうなのか?やりたいことをやるのはわがままなことなのか?
やりたいことをやるのは、すごく怖いことです。自分で決めたことは、誰も責任を取ってくれないし、言い訳の理由もくれません。
すべての責任は自分にあります。
やりたいことをやる代わりに、私は「自分で責任を取る」という怖さと一緒に生きていく。
自分で自分の責任をとる、そんな日常を私は生きる。
やりたいことをやったって不安はなくなりません。ビジョンドリブンに生きたって、不安は付きまといます。
不安にうろたえ、ダサくとも、この不安を可能性に変えて、生きていく。
そして次は、成功するまで絶対にあきらめない。
そんなゆるやなか、静かな覚悟を自分の中で感じています。
どんな風に歳を取りたいですか?
やりたいことを全てやって、やりたいことの難しさと理不尽さに苦しみながらも、絶対にあきらめない。
そんな風に年を取っていきたい。
死ぬときには財産も何も持っていけないのだと思ったら、持っていけるのは感情と思い出くらいなのではないでしょうか。
こんな風に年を取りたい、というイメージがなんとなくあります。
失敗もダサさもすべて一心に受けて、逃げずにその結果を受け止めていく。その積み重ねの先に、あのおばあちゃんはいる気がします。
おばあちゃんになった私と、人生の答え合わせができたらいいな~
そんなことを思う、夏のおわりなのでした。