葉っぱのきもち(習作)
去年のちょうど今頃、11月の終わり。ウォーウィックというニューヨークの田舎町を訪れる機会があった。冬支度がすっかり整った湖畔の森は美しかった。ポケットからスマホを出して写してみた。れっきとしたカラー写真なのだが、まるで墨絵のような、雑木林と湖の写真になった。
モノトーンの雑木林を見ながら、数週間前の燃えるような紅葉を思い描いてみる。赤、黄、朱。きっと息をのむような暖色のグラデーションが燃えていたはずだ。その炎の燃えカスすらのこっていない完全燃焼したあとの墨絵の雑木が潔く、気持ちよかった。
葉っぱは、この7-8か月、どんな旅をしたのだろう。どこで始まり、どこで終わるのだろう。ぼんやりと考えながら、葉っぱの旅に思いをはせた。
春。萌えいずる。葉っぱの旅の始まりを、五月晴れの空が愛でている。葉っぱは考えた。「さあ、これから、どうしょう。どう生きよう。自分のためじゃなく、だれかのために生きたいな」。柔らかく、しなやかに、葉っぱ人生の始まりだ。
初夏に、新緑の葉は風と遊んだ。それを見て、俳人は歌を詠んだ。
目には青葉 山ほととぎす 初鰹 (山口素堂)
夏になり、じりじりと照りつける太陽の下で、葉っぱは耐えた。表側は陽に焦がされつつも、裏側の蒸散作用に精をだした。濃い影を作ることに専念した。その甲斐あって、おじいちゃんも、おばあちゃんも、ビジネスマンも、ママも、子供たちだって、涼しい影の中が大好きになった。セミが遊びに来て、ミンミンと鳴いた。鳥が巣をかけて、幸せそうに命を繋いだ。
秋が来る。まだまだ葉っぱは忙しい。都会にも、田舎にも、それなりに、一様に、秋色の十二単を着せてあげたい。それが葉っぱの願いだった。木はそれに応えて、束の間の美術館になった。紅葉。それは誰のためのギフトだろう? 鳥の為でも、動物の為でもないのでは。天然色を感知できる、たぶん人間のボクたちのため、なのではあるまいか・・・。
晩秋に、葉っぱは旅支度に取り掛かる。どこへ行くつもりだろう? ひらひら、はらはら、土の上が ディスティネーション。それは、高い所から、低い所を目指す旅だった。見ていると、切ない気持ちになってきた。
冬・・・。葉っぱは、ゆっくり熟成していく。土を豊かにしながら旅は終わる。葉っぱの気持ちがいっぱいこもった、ふかふかの土に支えられ、木は次の春にまた息吹き、新しい旅が始まることだろう。
さて、ボクたちはどうだろう。高い所を目差すばかりが人生じゃない。そんな気持ちになってくる。それは確信へと変わっていく。さてと、ボクはどうしよう。
どんな旅を、すべきかな? どんな旅を、始めよう? はたしてワタシにできるかな?
迷う時はいつだって、誰かのために旅してる、葉っぱの心に学びたい。