Turn! Turn! Turn! 天の下のすべての事には時がある。
枯れた夏草ぼうぼうの、ジャングルと化したウチのアパートのバックヤード。夏から秋の何ヵ月も、ミニトマトとシソとバジルを供給してくれたオアシスの草払いをすることにしました。冬がもうそこまで来ているニューヨーク。霜月・11月、とある月曜日のことです。
ツツジの木の上に覆いかぶさっていたつる草を取り除いたら、深呼吸できて嬉しそうな枝先に、もうつぼみがついています。自然界はさりげなくも、勤勉です。これから始まる冬の向こうに、すでに春を見据えているとは・・・。
「バサッ、バサッ」とやっていると、アメリカ蔦が紅葉しているのを見つけました。そのまだらな感じやむらは、まさに陶芸の世界ですし、夜間の冷え込みに呼応してのパフォーマンスは、見栄を切る歌舞伎役者のようです。この雅の世界を、いつまでも見ていたいけれど・・・、時間は止まってはくれません。春に始まった葉っぱの “人生“も、もうすぐ終わり。それで・・・「時間よ止まれっ」という思いを込めて、スマホで写真を撮りました。
自分が、一方通行の道路の交通のようにただ一つの方向へ、前へ前へと進んでゆく時の流れの中で生きていることを実感するのはこんな時です。でも・・・そもそも時間とは何なのでしょう・・・。
「何事にも時がある。 この地上の全ての活動には時がある」。そう歌ったバンドがあります。Byrds というグループです。1965年に大ヒットした「Turn! Turn! Turn! 」という名曲は、意味深い対比が織りなすリズミカルな詩に、当時のサウンドを乗せたもので、出だしはこんな感じです。
To everything, turn, turn, turn. 全ての物事には(ターン、ターン、ターン)
There is a season, turn, turn, turn. 季節があり(ターン、ターン、ターン)
And a time to every purpose under heaven. 天の下、全ての目的に対してふさわしい時がある・・・。
シンプルにして深みのある歌詞が、グループサウンズに乗って展開していきます。ベトナム戦争が火を吹いた時代。その曲調には60年代の香りが立ち込めています。
実は、この曲の歌詞には「原作」が存在します。3000年以上前にイスラエルのソロモン王によって作られた詩で、聖書の「伝道の書」の3章に収めらています。オリジナルを記してみます。
何事にも時がある。 この地上の全ての活動には時がある。
生まれる時があり,死ぬ時がある。
植えるのに時があり,植えられた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり,癒やすのに時がある。
壊すのに時があり,建てるのに時がある。
泣くのに時があり,笑うのに時がある。
泣き叫ぶのに時があり,踊るのに時がある。
石を取り除くのに時があり,石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり,抱擁を控えるのに時がある。
捜すのに時があり,失った物として諦めるのに時がある。
保存するのに時があり,捨てるのに時がある。
裂くのに時があり,縫うのに時がある。
黙っているのに時があり,話すのに時がある。
愛するのに時があり,憎むのに時がある。
戦いの時があり,平和の時がある。
この詩を読むと、人間の営みはこの3000年間、本質的に何も変わっていないということに気付かされます。ボクたちは種を蒔き、収穫し、食べる。眠り、仕事に出かけ、愛する人と出逢う。どこかに大切なモノを置き忘れる。友と語らい、そして・・・避けられない別れに涙をこぼす。
人生は、喜びと悲しみの羅列、それを繰り返すだけのスパイラルということを言いたいのでしょうか? この詩をじっくり読むと、どうもそうではなさそうです。この古い詩の意味するところは、どんな営みにも、最も良い結果を生み出せる時、つまり潮時があるということ。適切な時と不適切な時を見分けて行動するなら、結果は大分違ったものになることを教えてくれているのです。
でも、ここでまた疑問が生じます。どうして人は、そもそも時間をこのように捉えることができるのでしょう? 過去、現在、未来。季節の移ろいに感情を揺さぶられ、紅葉する一枚の葉にさえ、自分を重ねてみては、人生の侘び寂びを味わったりしているのが人間です。なぜ人間に、この独特の時間の感覚があるのでしょう。
その答えは、伝道の書の3章の続きに書かれています。名曲、「Turn! Turn! Turn! 」の歌詞は、残念ながら、そこまで行かず一歩手前で終わってしまっていたのです・・・。
続きの部分はこうです。
神は全てを適切な時に美しくした。神は人に,永遠を思う心さえ与えた。それでも人は,真の神の行いを決して知り尽くすことがない。
人には、永遠という時間の感覚が与えられているという説明です。
なるほど・・・。
永遠という時の流れを想像できるからこそ、人は無意識に、小さな点に過ぎない自分の存在に気付いてしまう。だから人は、何気ない秋の終わりのワンシーンにすら立ち止まり、そこに人生の移ろいを見ようとする。
ボクが、紅葉する蔦の葉の一枚に心を震わせているのは、それが理由だったのです。
永遠を思う心。この天賦の潜在能力としての意識が、人生をこんなにも愛おしいものにしてくれていたとは・・・。
なるほど・・・なるほど・・・ 深まるばかりぞ 蔦の赤。
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