泣き声
バスや電車などの公共の閉鎖空間で子どもの泣き声を聞くと、ついとっさに周囲を見回す癖がある。そこに並んだ顔、顔、顔の造形を確認しながら、さあ自分の顔は一体どう動かしたらいいのだろうかと悩む。
小さい頃、わたしはよく泣く子だった。涙腺の筋肉がないのか あるいは発達しすぎて気持ちよく開閉されているのかわからないが、泣くことは日課だった。
昔のアルバムを開くと、毎日泣いていると顔のカタチはこうなるのかあと 幼き自分の目と眉の角度なんかに感心する。
ある日 あまりにも泣き続けるわたしに 父はお腹の底から声を出して「それ以上泣くな」と言った。
わたしは そのミッションを遂行し、止まらないしゃっくりすらも父の耳に聞こえないように必死に体をコントロールしていると、だんだん一体何が悲しかったのかと悟るような静かな心持ちが訪れたことをよく覚えている。
大学生のとき、当時よく耳にしたAqua Timezさんの「辛いとき 辛いと言えたら いいのにな〜」という歌詞に、
辛いときなんで辛いって言えんねんやろなあ と友人に話した返事に、わいちゃんは幸せだね と言われて恥ずかしい気持ちになったことがある。
幸せは恥ずかしいのだ。
声を出して泣けるというのは、泣いてもいい場所を提供してくれていたんだと 今になって思う。
母が普段使う もう泣き止みなさい というそれとは全く別の 泣くなと言った父を、子どもながらに 「彼はわたしを子どもだと思っていない」とショックだったが、逆を言うと 普段は子どもだから泣いてもいいと思っていたのだろう。
当時は恨めしく思った父の言葉も、今振り返ると、子どもではなく一つの生命体か同居人か何かとして接される体験は、自立するきっかけだったのだろうか。
子どもの成長とともに 親の見た目も大きく変化すればいいのにと思う。1メートルくらい伸びたり、あるいはゴジラのように第三形態になったり。
彼から見れば小さいわたしと大きいわたしは変化したと感じるのだろうか。わたしにとっては父はずっと横線をひっぱったように父で、あの泣くなと言った言葉も現在に生きているのである。