「人生150年」というタイトル

「人生150年」という某ラジオ番組のタイトルに、Tは「ながいっ」と鼻息荒く短く叫び、わたしは思わず吹き出してしまった。

厚生労働省によると日本の2023年の平均寿命は男性81.09年、女性87.14年。現時点では未知の世界の、人生150年という長〜い時間軸の感覚を想像してみる。

人生が150年だとすると、75歳が人生の折り返し地点となる。女性は約40歳の出産のリミットを過ぎたあと、110年間は子供を産むことはない。(今後はできるかもしれないが。)子供が独立した後、約75年間は自由時間となり、つまり75歳から新しいことを始めても遅くはないのだとほのめかされる気分だ。
子孫の繁殖、一族の繁栄といった生存本能と呼べる人類のミッションから脱し、より個人主義が勢いを増し、個人の趣味や能力が注力される。
「人生150年」。出産育児と仕事という選択を迫られる現代人にとって、2つの選択肢を叶える魅惑的な言葉なのだろうと思った。


母はわたしが物心ついた時から映画好きで、暇さえあればテレビで何か映画を見ていた記憶がある。洗濯物を畳む母の横にくっついて、時に派手なアクションが繰り広げられたり、惨殺なホラーシーンを一緒に眺めていた。たまに物語の背景や人物相関について質問すると、「この人は はめられてな、仲間から追われて、今は敵と協力してんねん。」などと短い説明が返ってきたりする。
忘れられないシーンもいくつかある。それらのほとんどは社会的弱者が虐げられているような場面だ。おかげでわたしの映画の記憶はいつも断片的で、ちょっと悲しい。

母はハリソンフォードのファンで、代表作インディ・ジョーンズを見ては、「一生に一度会って見たいわあ」と呟いていた。
3人の子供を育てながら、父の自営業を助ける。経理もやるし配達もやる、内職もやる。3度のご飯も作るし掃除洗濯もやる。そんな中で映画は現実を離れる母のとっておきリラクゼーションだったのかもしれない。
母に好きなジャンルはなかった。アクション、SF・ミステリー、歴史、ラブストーリー、政治、戦争..。アニメと邦画を除いたマルチ視聴者だ。
限られた時間がタイムアウトになると、潔くピッとテレビを消して、何事もなかったかのように「今日の夕飯何にしようか」と言う。
共感感覚が強めのわたしは映画を見てしばらくは何かしらの影響が残ったり、寝る前にもう一度シーンを思い浮かべたりするが、母にはそんなところはなかったように思う。
映画を見るたびに内容は忘れているのかと思いきや、たまに「あの映画なんやったけ、あの〜.. 」と聞くと何年も前の映画をよく覚えていたりする。

父が会社をたたみ、子育てにも手が離れると、母の映画嗜好にちょっとした変化があった。洋画を見なくなり(面白くなくなったと言う、確かにその時期はハリウッドの勢いが弱まった時期と重なる)、代わりに中国や韓国のドラマシリーズを見るようになった。わたしは母の横に座ることはなくなり、たまに横目でテレビを見ると、毎回同じように見えるシーンだったり、人物が言い争ってる様子が写っていた。
母がテレビの前に座る時間はだんだんと長くなった。

母はいわゆる韓ドラブームに乗った中年層の一人であり、特段不思議なことはないのだろう。
しかし若い頃に見たハリウッド映画、それはアメリカやヨーロッパへの憧れであった。同じ地上の延長線上にある別の空間、異なる言語を話す人々、風習の違う日常。当時の母は外の世界へ確実に惹かれていたと思う。現実との境界線をはっきりと引きながら夢を見ていた。しかし今はもうそんな場所に「興味ない」のかもしれない。
人生の終盤に差し掛かり、外へ冒険するのではなく、内へ帰る方を選択しているのかもしれない。

人生150年。

それがまやかしではなく本当にすぐの話だったらどうだろう。もちろん実際に延年転寿に現実味が帯びると、所得や地域格差によって平均寿命が大きく開いたり、定年や年金の問題、家族という構成の変化、若年層の幼児化など、さまざまな社会問題が浮上するのだろう。
しかしわたしは母に「人生150年」と耳打ちしたくなる。それは'わたしの'母'だからであり、そしてみんなそれぞれに'わたしの'母'がいるのかあと思う。


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