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傷跡に触れるか触れないか

ようやく暖かくなってきた私の在住地。今日は夏労働時間の始まりで、1日9時間労働する変わりに1日半日業務が出来る、というルールを祝い、アイスクリームをいただいてきた、コズエです。日本では考えられない仕事環境でしょう~笑

友人である同僚とおしゃべりしながら行って来たのですが(会社はいくつかの建物に分かれているため、隣の建物に歩いていった)、彼女の会話の中に、これは過去、彼女にとって傷だったのだろうかと思う発言がありました。

自分の痛み、傷には気づくけれど、それと同じ言葉を発したからといって、その人が過去に傷ついたのか、今も傷ついているのか、分からないものです。

それなのに社会は、そういうことに気を使え、という。その風潮は特に強い。もうそれが傷跡となっているかもしれないのに、あたかも流血しているかのように扱えとでも言うように。

そうして、他の痛みをまるで今起きたかのように周りで接すれば、傷跡からまた流血するかもしれない。だって、「痛かったよね、まだ痛いでしょ?ほら、触ったら痛みが戻ってこない?」って言ってるようなものだもの。

だから最近の風潮はちょっと首を傾げてしまうのです。傷は傷跡になる。それを勲章とするのか、そこから学ぶのか、傷跡をわざと広げて長々と流血させるのか、それは傷ついた人の権利。その傷に気づいた人の権利じゃないはずなのに、その周りの人にそれを労われという。

つまり、自分の傷を何時何時までもつついて、労わって欲しいって事ですね?

私が。

だって、そんな世の中作っちゃったのだもの。

私ったら、どんなに自己中で被害者意識いっぱいで、かまってチャンなんでしょう。。ああ恥ずかしい。

もう本当、このかまってチャン、どうにかしたいわ。。そして、傷跡があるからこそ美しい花を咲かせられるかのような、そんな人間になりたい。傷だって、傷跡だって、花だって成長だって、全部私のものだもの。

素材: acworksさんによる写真ACからの写真


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