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食洗機と、ひろゆき氏

今日2回目の投稿です。

先程食器を洗い、食洗機に入れました。食洗機は食器を洗う機械ではなく、簡単に洗った食器をリンスして消毒してくれるもの、という理解で、先程友人と一致した、コズエです。

食洗機の上には浅いもの、下には深いものを入れますが、もっと下に入れるものがあるだろう、と、小鍋などを上に入れていたんです。そうしたら上に入れたいものはまだシンクに在るのに、下はがらがら。もう今日はこれで動かすか。。と思った瞬間。

まてよ?

小鍋を(いつもと同じように)下に入れたらいいんじゃないか?

なんていう、普通にやってる行動が、まるで頭の上の電球が光ったかのように、凄いことひらめいちゃった!なんて気分になったんです。

それで、思ったんです(こんな簡単なことなのに)。

私達はいつも、効率良さを求めているんじゃないかって。もしくは、私はいつもそうだから、効率良さを求める部署に居るし、会社に居るのかもしれないですけど。効率よく!って割といつも考えてるかも!って。そしてより良く、するには、そのためのスキルを養うでも、リサーチするでも、そういう行動は苦じゃないんです。

そこで、ふとなぜ最近「ひろゆき」氏の記事に目が行くのかなぁと。そしてこの記事を読んで、コメントを見たときに思ったことを思い出したんです。

この人は、聞かれているから答えているけど、誰のエンタメになる気もないし、日本のために本気でなにかしようとも思ってないし、実際日本がどうなろうか、どうでもいいけど、聞かれるからこうなるんじゃん?って言ってるだけなんだろうなって。

ただ、彼は彼の基準で、より良い人生を生きたいから、生きたいように生きてる、だけなんじゃないか、と。

きっと、そう思ってる人は沢山居るのだろうけど。

その彼の自然体に見える思考からの著書が、また私の心をくすぐるんです。私の中の何かを刺激する。

そうだ。

「あなたが私のことをどう思おうが、知ったこっちゃねえ」と私も言いたいんだ、と。

だから、効率よく生きたい私が、効率良く生きるためにしてきたこと、これからすること、を誰に遠慮することもないし、誰の目を気にすることもないんだ、と。

なぜ食洗機のひらめきから、ひろゆき氏の記事で、こうなったのか、自分もよくわからないんですけど、そう認めたら、すっきりしたんです。自分が。

私のしてきたことを誰にも肯定してもらわなくてもいいし、否定される言われはない。

ただ、こう言ってしまうと、今度は人を批判できなくなるから、私は認めたくなかったんだな。

批判したあとは、また呪いの言葉を言ってしまった、だとか、また心にないことをとか、後悔してたけど(そして自分の身を守ったけど)、批判するのが好きだったんだ。

そして結論。

私が素晴らしい、ことは、誰かを貶めることによって起こることではなく、誰かが素晴らしいことは、自分が素晴らしくないことによって起こることではない。

ということが、腑に落ちたんです。相変わらず急流を下るような考えの変化ですけど。これ、当然だと思うんですよ。きっと多くの人は。でも傲慢で何でも1番じゃないとすまない私は、1番以外は全部ゼロ、と思っているくせに、怠慢だから、頑張るよりも人を貶めてしまえばいいと思う。だから、貶められる、と怯え、そして無知故に、そこから抜け出そうとしない。

ばかめ。ばかな私。

自分を自由にするために。
批判するのはもうやめよう。

私の価値は私以外は決め得ないのだから。

素材:写真AC

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