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信濃の仏像(國華1547号〈特輯 信濃の仏像〉要旨)

武笠朗

 本稿は信濃国(現長野県)の仏像の総説である。その始まりの飛鳥時代から江戸時代までの展開を、おおむね順を追って時代ごとにその特徴を論述し、現存主要作例を示した。
 最初に信濃の仏像のこれまでの研究史を概観し、かなり早くから調査発掘が進みその全体像が知られていたことを指摘した。信濃の仏像の始まりについては、信濃最古の創建とみられる信濃を代表する霊場寺院善光寺に注目し、飛鳥時代から奈良時代にかけて、この地に住んだ渡来系氏族により当地に仏像がもたらされ、あるいは造られ、それを本尊とした在地の有力氏族の私寺が建立されて行った様相を、松川村観松院菩薩半跏像など現存作例と併せて論述した。平安時代では、まずその前期に、最澄の信濃入りが天台宗系寺院の進出を促したことを指摘し、貞観8年(866)に5つの寺が定額寺に制定されたことに有力私寺の充実と造像環境の整備を読み込み、長野市松代町清水寺の諸像にそうした私寺の造像である可能性をみた。平安後期では10世紀の平安前期風をとどめる作例を紹介し、定朝様式の信濃への普及を在銘像の存在から12世紀前半頃と推定した。
 続いて、平安時代末期から鎌倉時代に大きく信仰を拡張した善光寺信仰と善光寺式阿弥陀三尊像について言及した。善光寺焼失後の建久2年(1192)の源頼朝による復興に注目し、そのことが善光寺本尊の模造としての善光寺式阿弥陀三尊像の普及流行と各地の新善光寺創建に結び付いたことを指摘した。または平安末期から鎌倉期にかけて、在地の有力氏族や武家の氏寺的造像が増えてくることを指摘した。中で、大町市覚音寺二天像や諏訪市仏法祥隆寺不動明王像などは運慶風を伝える優品で、源頼朝に仕えた御家人の造像とみられ、鎌倉での頼朝政権と運慶以下慶派仏師とのつながりが御家人を通じて地方に及んだ例と見做される。信濃における鎌倉様式の普及定着は13世紀半ば頃とみられるが、幕府御家人の地頭としての地方定着が氏寺建立を促した結果と考えられる。信濃国の在銘像を掲出し、また信濃の山岳信仰の遺品について紹介した。
 最後の鎌倉末期から江戸時代までの項では、まず上田市塩田平にのこる頂相彫刻の優品を紹介し、鎌倉後期に活躍した二人の仏師、妙海と性慶を取り上げてその事績と作品を紹介した。妙海は善光寺住を名乗る在地仏師の代表であり、性慶は京都で活動した都の仏師だが信濃での造像を残した。室町時代では康忠の活動を紹介した。彼も都の仏師で七条仏所の正系であるが、長野での仕事が多い。最後に江戸時代の造像として、やはり京都の仏師久七に注目し、これまで県内では町仏師久七の作とされていたが、すでに指摘されるように七条仏所に連なる久七康以に当たる可能性が高いことを述べた。

                                


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